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 ◆劇団四季『南十字星』
 ◆劇団四季『異国の丘』

2006年 1月 31日

劇団四季『南十字星』

投稿者 by tak@taknews.net at 18:12 / カテゴリ: 19演劇 / 0 コメント / 1 トラックバック

 予告どおり劇団四季の昭和三部作(戦争三部作の方が的確)の一つ、南十字星を見てきた。ストーリーの詳細は興味のある人はグーグルなり四季のウェブサイトなりで調べてくださいな。すごく簡単に言うと主人公が学生の頃に日本に来ていたインドネシア人のヒロインと恋に落ちるものの、徴兵されてインドネシアに行く話。それにインドネシア独立運動も重なり、最終的に主人公は極刑にさせられるというところ。演劇のレベル云々は見ている数がめちゃくちゃ少ないので評価できるレベルにないので、それはなし。

 異国の丘もそうだけど、浅利氏はまずは詳細に現実を見ていこうという意思なのだろ感じた。(情の面でも論理的にも)良い悪いという判断をずばっと二分法的に提示するのではなく、様々な面を見せて観客に考えさせようという意図なのだろう。単純な一億総懺悔的な態度でもだめだし、単純に日本の仕掛けを正当化するのでもだめだ。もっと複雑なことを描こうとしているように思えた。そういう意味では観客を一番不快にさせるものかもしれない。ただ主人公が戦争犯罪人にさせられて死刑になることにより「締めて」いるのでそこまでぐるぐる考えてしまうことはないか。そもそも不快になるほど考える人は、その不快さを不快とは受け取らないだろうし。
 それで一番考えさせられたのは主人公の死刑。彼は無実の罪なのにろくな取調べや弁護もない結果ありきの戦勝国の勝手な裁判で裁かれ日本に帰ることなく死刑に。そんな彼が死刑を受け入れる覚悟を持った理由は、自分たちが死刑になることによって戦勝国の連中の溜飲を下げる効果があると考えたからだ。それにより戦勝国、とくに占領国となったアメリカは日本に対して恨みを持たなくなるはずだというわけだ。自分たちがみんな死刑になってすっきりすることにより、無駄な被害をこれからの日本には与えないという意思。そのような考えが現実として戦勝国側に機能しているのかはわからないが、彼の考えを受け継ぐものには大きな意味がある。

 この他山の石となるべく死んでいくのは靖国問題にも繋がっている。A級戦犯はだけが悪くないのだから首相が靖国は参ってもいいと考えるのはまさに他山の石となって死んでいったものたちへの冒涜である。個人的にはA級戦犯の全員とはいかなくても死んで当然の連中が大半だと感じている(もちろんだからと言って東京裁判は正統性があるのではないのでだめだ。結果的に正当であっても正統性がなければだめ)。しかし彼らが結果あり気の正統ではない裁判を受け入れA級戦犯なるレッテルまで貼られて死んで行ったことは、「上層部で仕切っていたA級戦犯の連中だけが悪い」というネタ作りには格好ではないか。南十字星の主人公の考え方が米国への対策なら、こっちはアジア各国への対策となるのだ。A級戦犯を大事に思うなら徹底的に彼らが悪いということにすることにより、侵略した国々とうまくやっていくチャンネルをつくることができる。思想も心情もなければ論理性もない連中(小泉をはじめヘタレ右翼も含みます 当然)をみてさぞ英霊たちはお嘆きのことでしょう。

 あと気になったのは日本の侵略はアジア解放(そもそも大東亜共栄圏だ八紘一宇だと言っている時点で自分たちのものにしようとしているわけだから解放じゃないけど)の意味も幾ばくか(とくに初期の段階では)あったということ。インドネシアの独立の機運が高まっていたことも相俟って、事実として浅利氏は描いたのだろう。私は自分で史実を確かめたわけではないけど、正しいのではないかと考えている。しかし、いくつかこの演劇の感想を見るとこの「解放」を誇大に捉えている人が多いように思う。そしてその二分法的思考自体浅利氏が意図したものではないと思うのだが。ここで少し解放の正当性をイラク戦争を例に考えよう。

 イラク戦争は存在しない(そもそも米国査察団のスコット・リッターがないといっているわけだし)大量破壊兵器を一番の理由に挙げて戦争をふっかけた。このやり方を正当化できるだろうか?まずできない。そこで米国は当初はメインの理由ではなかった民主化を第一の理由にした。そこで考えてほしい。仮に戦始めから民主化をイラク戦争のメインの理由にしていたら、アメリカの戦争は正当化できただろうか?仮に正統性は守られたとしても、その理由でも正当化できないのではなかろうか。さらに付け加えよう。ケン・ジョセフとかが言うとおり、イラク戦争によって現実的に開放された面はあるのだ。もちろんその後の空爆が異常に長いのだが、解放された勢力があるのは事実だ。それでも正当化できるだろうか?そもそも米国の政府を見ると石油や天然ガスと偉いつながりがあるわけだ。そこを考えればますます正当化できない。

 この構図は日本の先の大戦と似ていないだろうか。要は真のメインターゲットは資源(もちろん石油も含む イラク戦争は石油だけではないと思われ)が欲しいなど自分の利益のためだが、現実には解放を掲げる。これで正当化できますかと。あともう一つ付け加えておくと中韓は欧米の植民地ではなかったので「解放」とは口が避けても言えない。そこを忘れて解放の要素ばかり褒めてもだめだろう。また確かに前線の軍人たちは罪なく、真剣に解放軍としてがんばっていた人もいるのだろう。それは感情移入させられる点はあるのだが、現実を見るリテラシーの低さを指摘されたら返す言葉は彼らにあるのだろうか。

 単純な二分法的思考ではなく考え続けることは非常に大変だが、それを忘れてはいけないと、劇場の帰り道強く思った。思考に耐えられなければならない。

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2005年 12月 01日

劇団四季『異国の丘』

投稿者 by tak@taknews.net at 22:11 / カテゴリ: 19演劇 / 0 コメント / 0 トラックバック

 先日劇団四季の異国の丘を見てきた。平日のマチネだったので人は少ないと思っていたが、行ってみたら満員だった。ま、私と(性別及び年齢で)同類になる「客層」はゼロだったけど。

 つい少し前まで「演劇?、けっ!」とか言っていた90年代のアイロニーの体現者だった(?)私は、演劇そのものに対する詳細な評価はできない。かなり洗練されていてうまいだろうと思うけど、いかんせん見ている絶対数が限りなくゼロに等しいので・・・素人ながらの評価ではミュージカルとしての出来はさすがだな、と思うのだけど正しいかは不明。

 ストーリーはオフィシャルサイトの記述http://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku/story.htmlを参照。確かに脚色はされているが、大筋で近衛文隆の生涯と重なっている。首相の息子、アメリカ留学、プリンストンのゴルフ部主将、蒋介石政権との直接の和平交渉、重慶政権要人の娘と交際、ソ連で25年禁固刑、帰国直前に謎の死 どれも実話だ。休憩後の冒頭に出てくる「異国の丘」を歌う場面の作曲者吉田は国民栄誉章をとった故・吉田正だ。

 劇を見ていてまず思ったのは、浅利慶太氏は国民国家を強く意識しているということだ。もちろん明治維新から敗戦までを描くと国民国家を強調してしまうのは仕方ない。しかしそれを超えて、浅利氏は国民国家観を現在にも投影しているように思えた。それは作品の随所に登場人物が過度に国民国家を意識していると考えられる発言のみならず、配布されたチラシ類の中にあった浅利氏の言葉からもそれが伺える。国民国家を持ち出す気持ちはわかるのだが、現状ではそれを超えなければならないのではなかろうか。

 一方でアジアの国は比較的「国民国家」の幻想を抱きやすい地域である。また国民国家という概念を持ち出すことは手っ取り早く国民に「共通前提」を提示するツールとしても使えるのは間違いない。明治維新のときに後発先進国に滑り込もうと焦って国民国家形成のために天皇を担ぎ上げたのもこのようなツールとして利用したのだ。当時の政治家たちにはこの「ネタ」的要素を十分に理解していた。

 また国民国家を超えろと偉そうに言っても、「ボーダレス社会」「グローバライゼーション」を声高に謳う「軽やかにこのボーダーなき時代を生きる」連中と同調する気も毛頭ない。それこそアンゲロプロスではないが、そんな簡単な越境は表面上のものでしかない。(しかしハンチントンなんかにはのりませんよ、ととりあえず書いておかないと勘違いされるな) もしかしたら浅利氏はそこまで考えて「ネタ」として国民国家を考えているのかもしれない。いや、それはさすがに深読みか。やはりあの年代のリベラル層には共通前提としての国民国家がスタート地点だったと考えていいかもしれない。

 こう書くと批判しているようだが、国民国家が自分のキーワードとなっていることもありちょっと突っ込んだだけでその他に浅利氏が提示するものは傾聴に値する。例えば論理的にどう考えても負け戦にしかならない戦争を仕掛けて(ないし自ら巻き込まれて)いった責任を考えようとする姿勢が感じられた。「戦争は悲惨だ」というだけでは風化は免れえない。そして後世の者たちへの直接的な思考訓練の提供ともなりえない。問題は論理的に考察してみることだ。あの年代(失礼!)でこのような問題意識を明確に持っている人は少ない。いや、ほとんどいないのではなかろうか。そのような認識が日本ではあまりにも足りない。論理的に振り返らないので責任をなすりつけあって無責任に逃れるか、無限責任を背負い無責任に逃れるかの二択になっている。

 他にもアメリカの二人の愛を大いに利用した和平工作(事実ではないと思うけど もし事実ならCIAと政府が分かれていたということになり面白いことだが)や、忘れられやすいシベリア抑留の厳しさ(これこそとんでもない国家犯罪だろう なぜ拉致にはうだうだ言うのにシベリア抑留については何も言わないのか「北朝鮮くそ!」と言ってカタルシスを覚えている連中は今すぐ考えるべきだ シベリアに比べて拉致なんて屁みたいもんだ)についての投げかけの役目も果たしいい作品だった。ただ単純に「戦争はつらかった」という情に訴えるだけのメッセージでは現実は変わらない。場合によってはそのような情に流されただけの態度が悲劇を生むことすらある。そうではない論理的な考察や多角的な問題提起を「異国の丘」は出来ている。国民国家に縛られているのは少々ひっかかるが、それは戦前生まれのリベラリストの共通前提であるのかもしれない。とりあえず次にやる『南十字星』も見に行こうと思う。『李香蘭』も見に行くつもりだったけど、いけなかったのが残念・・・ストーリーは一番面白そうなんだけど。

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