2006年 2月 22日

梅田 望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』 ちくま新書 2006

投稿者 by tak@taknews.net at 15:20 / カテゴリ: 09書評 / 2028 コメント / 0 トラックバック

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まるちくま新書
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まるちくま新書

 これは良著だ。ITの進化をそれに直接的に触れ合わない一般の人たちにこれだけわかりやすく書かれた本はなかなか見当たらない。細かい技術を語ることはなく大枠でコンセプトを理解し、現状の力学を知るにはうってつけだ。特にグーグルの思想とその方向性、Web2.0の概要は一読に値する。
 しかし残念ながら私はこれからの力学及び著者やその周辺の(括弧付)「思想」に肩入れしようと言う気持ちは湧き上がらない。一番の問題点を挙げて私の気持ちを記そう。この書では、Googleは今までのしがらみだらけの権威を脱ぎ捨てそのウェブサイトへの「リンク」をパラメータとすることにより 「民主主義的な」検索システムを構築し「自動秩序形成システム」を提供しつつあると主張している。しかし現実的にGoogleのページランク・アルゴリズムは公開されているわけではない。つまりそこにいかなる恣意性が働いているか一切知る由もない。そして実例からもこのアルゴリズムに恣意性が潜んでいるのは間違いない。この問題がGoogleの思想を根幹から揺るがしかねないことであり、それが崩壊した瞬間にGoogleは悪しき権威になるに過ぎない。それに一切触れない著者の姿勢は不誠実で、それこそ「思考停止」(ないし私たち一般人に「思考停止」を求める姿勢だ)と断ずる以外にない。
 分散型システムの中で誰もが使え、関わる事が出来るリソースがあふれることは望ましい。それにGoogleなどの新興IT企業が大きな寄与をして来たことは間違いない。しかし彼らが新たな権威醸成システムとなれば、分散型システム内のノードはanother brick in the wallに過ぎない。結局Googleという新しい中央集権的権威が形成されるに過ぎないのだ。それはレジュームチェンジであると、私は思わない。またそれは、この書で「希望」を持った人たちが望む結果でもない(と信じたい)。


とりあえず800字に合わせにいった書評

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2005年 12月 25日

石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書 2005

投稿者 by tak@taknews.net at 23:17 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

国語教科書の思想ちくま新書
国語教科書の思想ちくま新書

 高校国語教科書の編集委員も長年勤めている著者が、小中学校の国語教科書を分析した書。第一章では国際的な学習到達度調査で勃発した「読解力低下問題」について取り上げている。端的に言えばこのテストは読解リテラシーの能力を問うている。しかしこれまでの国語教育は道徳的要素が大きく、このテストでは点数に結びつかない。一方で頭の悪い政治家は道徳的な今までの国語(昨今の国語はリテラシー重視に変容しつつある)に復権してテストの点を挙げようと喚く馬鹿丸出しの惨状。そこで筆者は「国語」を解体し、グローバルスタンダードとして求められる「リテラシー」と個性と能力を自由に延ばせうる「文学」の二教科に分けるよう大胆な説を挙げている。
 第二章では小学校、第三章では中学校の教科書を実際に構造分析し、その裏に潜むイデオロギーを暴こうと試みている。端的に言えば様々な固定された価値観を善意で提供しているとまとめていいだろう。その中で元気で明るく外に向かって「発信」することができる子供を育てようとしているのだろう。しかしそれは一定の価値観を押し付け、内省的思考の機会を大幅に失くし、さらには発信する他者を想起させないものであるのだ。私はここで竹中平蔵周辺の言う「IQの低い国民」を連想してしまった。この「IQ」は単純にIQテストの成績が悪いという意味ではなく、わかり合えない他者を排除し、リテラシーが低く、再帰的なことはできない、批評的な考えができない人たちのことを指すと考えられる。

 ただ個人的に残念なのは一読して納得できる面が非常に多いのだが、全体を通る軸が明示していないので散漫な印象を持つ人もいるだろう。これは編集者ないし著者の意図でツッコミをいれるような形で教科書分析を行ったことに起因している。読みやすくする工夫であろうが構造的には好ましくない。教科書の「分析」ならシステマティックにまとめた論文形式のものが良かったのではなかろうか。またここから昨今の新書の安易な「方向性」を感じなくも無いのだが(とツッコミを入れてみる)。

 また最後に加えておくと、教育とは「意図的」に型にはめていくプロセスであると言う議論も必要である。大概においてこの段階は「ステップバック」の議論を誘起しやすいのだが、そこを乗り越えなければ教育の本義を見据え主役=子供を考えることは不可能なのだ。

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2005年 11月 15日

森鴎外『半日』1908

投稿者 by tak@taknews.net at 21:43 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

ここに載せるために書いたわけではないけど自分の書いたテキストをアーカイブ化しておくのに便利なのでここにアップ。

 まず一作品目の考察として森鴎外の「半日」を取り上げることにする。半日を分析するにあたり、テーマは『時代背景から半日の意図を探る』と設定する。つまりテキストの微細な考察から心理を読むのではなく(もちろんそれを軽視しているわけではない)、小説のコンセプトに少なからず影響を与えていると考えられる「時代」を切り口とし、読み手として二つの対象者(一般読者と鴎外自身)を設定し早速本題に移ることにする。

 まずは半日のターゲットとして一般的な、一般読者について考えてみる。少々冗長になるが、敢えて書かれた年から時代へと広げていくことにする。半日が初めて日の目を浴びたのは1908年だ。この年だけを見ればラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀が清の皇帝に即位したことくらいしか大きな出来事はないが、すこし振り返れば1905年に日露戦争で大日本帝国が勝利している。これが意味するところは幕末から始まった急造の近代国家の造成が約40年で欧米列強と伍する力を蓄えつつあることだ。では当時の「近代国家」とはいかがなものだろうか。そのキーワードは間違いなく「国民国家」だ。一つの民族に一つの国家、これが近代化への一歩だったのだ。一つのピラミッド型(トップダウン型)の社会を作ることによって戦争や産業における意欲を格段に高めて、また他国との間の緊張関係をエネルギーに換え爆発的に成長していくことを試みる時代だ。また民主的な革命をまたずしてトップダウン型社会を急造するのは後身国である旧枢軸国の特徴である。
 しかし日本は過去の歴史において一度たりとも「一つの国」になったことはなかった。直近の江戸時代も藩が「国」であったのだ。さらに多神教的思考をが根強いので、国民を一つのものに集約していくことは難しい。そこでネタとして天皇を一神教の神として祀りあげることを伊藤博文たちは考え出した。(もちろん伊藤たちは天皇への尊敬の念などなく、ただ利用していると考えていいだろう。)また家父長制もトップダウン型の社会構造に役立ったのだ。


 長々と国民国家形成の過程を書いたが、ここで「半日」の舞台に戻ろう。「半日」の設定月日は孝明天皇祭の日であった。一神教の神として祀り上げられていた明治天皇の父を奉る儀式である「奥さん」が出かけると騒ぐために出席できなくなる。それが意味するところは、奥さんは家父長制のトップである博士ばかりか大日本帝国の絶対的な父である天皇のそのまた父にさえ対抗できる「個」を獲得しているということだ。陳腐になりかねないが、嫁姑問題を介して端的な対立構造を出してしまえば国民国家が個に負けつつあることを示したのだ。

 もちろんただその対立を示し、現代の状況を示す鴎外の意図ではない。私はここで鴎外の「戦略」を垣間見えるように思えてならないのだ。分析的に読むわけではない一般的読者は、半日から国民国家の危機を読み取ることはまずないであろう。また真っ向勝負で国民国家の危機を説いても暖簾に腕押しだろう。「国民国家が素晴らしいという価値観の問題ではなく、国民国家にならなければ欧米列強に負ける」と社会システムの構築側からすれば当たり前のことを一般人に悟らせることは無理と断言していい。そうなるとある種一般人を操っていくしかなくなる。そこで鴎外(同時代の作家としては異例の非ドロップアウト組 国民国家形成におけるシステム構築側にいたといってよかろう)は敢えて嫁姑問題に矮小化して、「半日の奥さんみたいなやつはどうしようもないな」と一般人に思わせ、知らず知らずのうちに後発先進国の国民国家形成の土壌を作ろうと思ったのではなかろうか。また「鴎外の実生活」であるということも、一般人の「人のプライバシーを除く楽しみ」をくすぐり、小説の「存在価値」を高めようとしたのではなかろうか。(昨今の芸能人の報道にも近いものを感じる。)このように、ただ読むと「奥さんみたいなのは嫌だわ」「こんな女、気違いだわ」と思わせることが大きな社会システム構築へと操る鴎外なりの方法だったと私は考えている。以上をまとめると、「半日」は鴎外がある種「ネタ」として矮小化した嫁姑関係を提示することによって一般国民を欺き、国民国家形成へと導こうというアイロニカルな鴎外の選択であったと私は考えている。また久しぶりに小説をわざわざ書いたと言う点も、国の命運がかかっているという重さを考えれば説明がつく。

 二つ目の対象者として鴎外を軸に考察してみる。半日は鴎外が何かしらの利益を得るため、ないしある種のカタルシスを感じるために、つまり自分のために書いたのではないかということだ。いくつか具体的に見ていく。まず俗でありわかりやすい点を言えば、奥さんへの仕返しがあげられるであろう。森於菟の著作「父親としての森鴎外」を読めば、於菟は少なからず「奥さん」のモデルである(育ての)母、茂子は世間の習俗に合わせようとせず、嫁姑関係もこじれ常に眉間に皺が寄っていたと書いている。森家の中では比較的客観的立場であるが於菟のこの証言は、茂子が「半日」の奥さんほど出ないにしても森家のトラブルメーカーだったこと間違いない。そのような状態が長らく続いたため、鴎外はほとほと参っていた。ここでお灸をすえることによって自制(自省)を働かせようと意図したと考えるのは、俗ではあるがナチュラルだ。(なおこの「半日を書いた理由」は最終的には奥さんがターゲットとなるのだが、便宜上それを求める鴎外の項目であるこの場所に入れた。)
 またこのような表面上の意図だけでなく、自分自身にある種のカタルシスを得る装置も半日は備えているように思える。先の国民国家形成の話でも触れたが、鴎外は最終的には陸軍軍医のトップにまで上り詰めたエリート組であり、国民国家形成に寄与している側であった。その鴎外が日露戦争で大失態を犯す。それは誤診だ。日露戦争では兵隊たちは白米を主食としたため脚気患者が25万人、死者3万人近くもでるとんでもない状態になった。そこまで異常な事態になったのは、鴎外が脚気と判断せず麦飯を患者に食わせることはなかったためである。血の日曜日事件などのロシアの政治背景なども手伝い、よれよれの状態で勝利した日本の死者数は8万7983人中病死者であった。そのうちの2万7800人がなんと病死なのだ(Wikipedia)。もちろん病死のすべてが鴎外の責任ではなかろうが、多くが鴎外の責任だと言われても仕方がない。一方で海軍では医務局長の高木兼寛が早くから欧米と日本は主食が違うことに気づき、麦を食べればいいのではないかと考え実践していたため脚気患者はほとんどでなかった。しかしウイルスを発見したコッホの下で学んだこともある鴎外にしてみれば、高木の言い分は前近代的な考え方であった。謎の病はウイルスである、それが当時の最先端だった。後に鈴木梅太郎がビタミンB1を発見し、脚気の原因をこれの欠乏としたときも鴎外は反対した。
 この「脚気」のエピソードからわかることは鴎外は自分自身の西欧で学んできた考え方にある種、異常なまでに強い自分の中で形成された「論理」に自信を持っていたということだ。直接的に関係のない脚気のエピソードを書いたのは鴎外の異常なまでの「頑固さ」―それはエリート街道を歩き、ドイツ中心で価値判断する「間違いのない」論理性を手に入れたと考えていたからだろう―を示したのだ。その「頑固さ」は嫁姑の在り方に対する考えにも反映されている。例えば「嫁と母なら母の方が大事。暮らしている時間も長いし血も繋がっている。」という趣旨の発言をしていた。これは時間の長さや血の繋がりと言う一見すると「論理的」な考え方だが、ある決まりきった価値観の元での考え方だ。その価値基準を作っていつ「価値」への疑いはほとんど感じられない。そんな鴎外は時代の移り変わりに気づきつつも、奥さんにいらだっていたはずだ。そこでその論理を乱すものに対して自分の考えを表出してしまうことによってカタルシスを味わったのではなかろうかと考えた。また論争好きの鴎外が違った形で論争を吹っかけたともとれうるだろう、
 あとは口語体小説への挑戦が先にあり、口語体で書くべきまたは書きやすい材料として日常的な「嫁姑関係」を使用したことも考えられる。また「半日」の次には「ヰタ・セクリアリス」を出している。この年に自伝的な小説を続けて出したことは、日露戦争での失敗(但し自分は間違っていないとずっと思っている)後は1907年に陸軍軍医総監(陸軍軍医のトップ)になりその翌年には弟と次男が相次いで死んでいる。この上り「詰めた」ことと身近な者たちの死が鴎外の視点を家(内)に引き込んだのではないかとも思える。

 以上のように鴎外は大きな枠としては磐石な国民国家形成に際して国民を操るために、敢えて俗ではあるが嫁姑問題の小説を書いたのだと考えられる。但しその大きな軸が途轍もなく重要なことに変わりがないが、その一方で鴎外自身が得をするため(我が家の平穏)や自分の「論理性」への過剰な自信、さらには自己を振り返るチャンスの到来などの複合的な意図を包含し「半日」という作品に結実したという結論として終わることにする。

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2005年 10月 25日

烏賀陽弘道『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』岩波新書 2005

投稿者 by tak@taknews.net at 10:46 / カテゴリ: 09書評 / 3 コメント / 0 トラックバック

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業岩波新書


Jポップとは何か―巨大化する音楽産業岩波新書

 私はJポップを全く聞かない。そんな私でも「最近」のJポップのサビはいやでも耳にしている。なぜにJポップが当たり前の存在となったのだろうか。それをこの書は紐解いている。

 まず「Jポップ」なる言葉の成立背景を明らかにしている。そしてその裏には国際舞台で通用するという「ファンタジー」があったと説いている。西洋諸国に経済だけでなく文化もならんだという幻想を抱かせる、それがJ(ジェイ)には含まれているということだ。

 次にメインテーマとしてJポップがここまで巨大化した背景を解説している。そこでキーワードとしてデジタル化、「Jポップ産業複合体」の形成、セルフ・アイデンティティーを著者は挙げている。デジタル化によりオーディオユーザーがおじさん層から若年層に一気に広まり購入層が莫大に増加した。また制作側も打ち込み主体となり安い制作費で大量生産が可能になった。またメディア、広告代理店、スポンサーとレーベルの共犯関係により「Jポップ産業複合体」が形成され、「タイアップ」中心のサビだけの音楽が時流に乗った。そして消費者をみると、経済的に世界ナンバーワンとなった日本人は「モノから心へ」という転換の中で「自己愛型消費」、つまり歌だけでなく言動やファッションも含めてセルフ・アイデンティティーを確立のために好きな歌手の歌を買うようになった。さらにカラオケや着メロも同じ心理で自己を否応なく見せ付けるツールとなっている。

 これらの要素によって「Jポップ」誕生からわずか十年あまりにも巨大な産業と化したのだ。しかし、ご存知の通り近年のCD売り上げは低下傾向だ。その原因とそれを克服するための「政治権力との癒着」を終章に結んでいる。Jポップについて心理的ないし社会的な考察はされてきたが、産業として分析した人は過去いなかった。それを試みた本書の挑戦は成功したといえるのではないだろうか。将来的にはiTMSの影響についても考察してほしい。

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2005年 10月 21日

丸山真男『日本の思想』岩波新書 1961

投稿者 by tak@taknews.net at 11:01 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

日本の思想岩波新書


日本の思想岩波新書

 まず始めにこれから読むであろう人にアドバイスを。丸山氏もあとがきで書いているが、四部構成中の靴鉢犬ら読んだ方がわかりやすい。いや、私個人としてはそれを積極的に勧める。冒頭から読み始めると気鉢兇論文形式であり、かつある程度通史的なのでわかりにくい。靴鉢犬魯董璽泙版愀蔽亮韻絞られた講演形式なので非常に読み易い。その後に亀擇哭兇鯑匹瓩丱董璽泙盡覆涼罎埜穏濂修靴笋垢い呂困澄今回は靴鉢犬砲弔い討里濆融,垢襦

 靴任蓮崙本の社会なり文化なりの一つの型」として「タコツボ型」をあげている。各々の社会や文化が完全に孤立して閉じている状態から「タコツボ」と名付けられている。一方で著者は「ササラ型」という型もあげている。「ササラ」は竹の先が割れたものであるから、根元でつながっている。つまりそれぞれ共通の根元があるわけだ。一方「タコツボ」は完全に孤立している。少し考えてみると日本は未だに何もかも「タコツボ」ではないだろうか。自分が所属している集団も多くは相互間の「基盤」がなく、ディストリクトされた空間で吼えているのではないか。専門バカという言葉が日本にはあるが、著者が指摘した時代よりもよりあらゆる分野(別に学問に限ったことではない)でいっそう進んでいるようにさえ思えてならない。

 犬任郎となっては常套句となりつつある『「である」ことと「する」こと』がテーマになっている。こう聞くと「タコツボ」と同じく、日本社会は「である」ことが重要なままなのだという結論を考えそうになるが、著者の論点はそうではない。「する」ことの価値が日本に流入した後に、「する」価値と「である」価値が倒錯していると言っている。「である」価値を認めるべきところ(文化など)で「する」ことが侵食し、「する」ことを重視すべきところ(政治など)で「である」ことが未だに居座るという「倒錯」が起こっているのだ。著者は最後に「再倒錯」のために「ラディカル(根源的)な精神貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくこと」、言い換えれば「である」ことが重要な内面的精神世界を十分に蓄え、そこから「である」ことに胡坐をかく政治にコミットメントすることを処方箋としている。

 私なりにまとめると「タコツボ」から「ササラ」に変えていき、各々がベースとなる教養(ただの知識ではなく「内面的な精神生活」)を己のうちに育むことが重要なのだ。その蓄えられた教養が強靭な下支えとなり、政治へのコミットメントに大きな力を与えるということだろう。著者がこの本を出してから40年が過ぎるが、このテーマは全く色あせていない。これは著者の先見の妙というよりは、結局何も変わらなかった問題点の方が大きいように思えてならない。

(追記)かなりだましだましな書評・・・・

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2005年 10月 09日

石川文洋『ベトナム 戦争と平和』岩波新書 2005

投稿者 by tak@taknews.net at 08:15 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

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ベトナム 戦争と平和

 報道カメラマンの石川文洋さんの著書。カメラマンの著書だけあり、新書ではあるがオールカラーで写真とテキストが半々くらいの構成となっている。構成は三部からなり、ベトナム戦争とその後、さらに昨今のベトナムを紹介している。
 テキストは史実や写真の背景説明が淡々と書かれ、写真を中心に話が進むこともあり ベトナム戦争の表層の歴史や深層の力学を学ぶ本ではない。著者の見てきた「土着的」ベトナムを知るための本なのだ。その「土着感」が筆者がファインダーを通してみてきた「ベトナム」と呼応し、強きメッセージ性をおびる。
 一方でベトナム戦争では石川氏ばかりでなく、多くの日本人カメラマンが大活躍した。
例えば沢田教一氏の名前こそ知らなくとも、日本人の多くの人が「安全への逃避」(親子が川を渡る写真)は見たことがあるはずだ。しかし現在の戦争報道は米軍により提供されたものや外国の通信社が撮ったものを日本のメディアが垂れ流しているだけではないだろうか。
 米軍の提供する情報(トマホークの発射シーンやピンポイント攻撃の映像)は「土着感」(敢えてここでは「土着感」で押し通す)を殺ぎ落とす。そしてメディアも意図的としか思えないほどに「土着感」を消して報道をする。その共犯関係が醸成しつつある「真実」に踊らされる私たち。

 私の心を捉えて話さない「ベトナム」が持つ性質は「土着感」なのかもしれない。この書で私の内なる力学を再確認した書であった。


(追記)上のものは自己に向かわせてしまったため、写真の紹介をうまく入れることが出来なかった。ここでいくつか自分の心を捉えたものを紹介する。あげていないものの中にも興味深いものや心を捉えたものはいくつもあるのだが。

・肝臓を切り取られた解放戦線兵士の死体
 敵の肝臓を食べれば戦死しないそうだ(言い伝えやまじないの類であろう)。

・政府軍の装甲車が田んぼのど真ん中を走っていく写真
 このようなことをやって農民の心が離れたと聞いてはいたが、初めて写真で見た。

・兵士とその妻(と思われる)が木陰で座っている写真
 女性は後姿。服が白いためくっきりとブラジャーのあとが見える。それと兵士が指を見つめている姿が呼応し、いたたまれない感情を抱いた。

・二ページぶち抜きで照明弾がいくつも落とされる写真
 なぜかこの光に吸い込まれるように感じてしまう。自分が生でこれを見たら、ただ立ち尽くすしか出来ないように思えてならない。

・えび売りの主婦が撃たれた写真
 倒れた被害者の頭にかぶさるようにひっくり返ったざると、こぼれている大量のえび。無表情で立ち尽くす男性。一発の流れ弾によって変わってしまったものの空しさと、その後ろにある普遍な生活を感じる。

・虐殺されたミィドゥク村の人々の写真
 引き気味の写真なので細かく見えるわけではないが、体中が腫れ上がっていることから撲殺であることがわかる。カンボジア軍はなぜに直接的に虐殺をしたのだろうか。(当然人を殺すことを奨励しているわけではないが)基本的に飛び道具を使った方が心理的には人を殺しやすい。自分の目の前で自分の力で村人を抹殺しようというマインドは何から生じたのだろうか。

・枯葉剤による先天性異常をきたした(と思われる)胎児のホルマリン漬の写真
 死産した子だろうか。これも引き気味の写真なので詳細にわからないが頭に強くこびりついている。なお枯葉剤の影響は第三世代にまで及んでいる。次は劣化ウランか。

・笑顔の女性の写真(複数)
 美しい。これ以上は言葉にするとあほくさくなるのでやめとこう。。。

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2005年 10月 06日

三浦展『下流社会 新たな階層集団の出現』光文社新書

投稿者 by tak@taknews.net at 12:31 / カテゴリ: 09書評 / 2 コメント / 0 トラックバック

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下流社会

 一言で言えばがっかりした。本書はまず豊富なデータから階層格差が広がっている現状をあぶりだしている。さらにアンケートサーベイの結果から、各階層の人間像を想像し、それを通して下流社会に生きることのマイナス面を(直接的批判でないにせよ)挙げている。つまりこの書の目的はアンケート結果から下級社会像をあぶり出し、その問題点を指摘するということだ。しかしその考察の多くは著者の独断に過ぎないと断ぜざる終えない。以下に詳しく見ていこう。
 まずは異常な数の「推論」だ。まずアンケート結果から階層ごとに典型的人間像を過度に想像している。例えば下流=「総じて人生への意欲が低い」(「はじめに」より)と述べている。著者自身はアンケート結果から出てきた「真実」であると考えているのであろうが、それは誤りだ。なぜなら筆者は「アンケート結果」と「真実」の間の論理で常に「考えられる」「だろう」などの推論を示す言葉でつないでいるに過ぎないからだ。推論の語尾を嫌ほど見せられる書だ。
 また筆者自身の価値観をベースとした議論が進められていることもわかる。例えば第8章で郊外定住型の生活を「バカの壁」を例にして、郊外から出ないで「本当の世界があることに気づかない」と断じている。しかし、その背景には55年体制の下で築かれてきた中央集権的で国が富んでいく時代が正しいと言う価値判断が見え隠れする。少なくとも筆者が中央集権的世界が「本当の世界」だというナイーブさを包含しているのは否めない。

 一方で階層の固定化に対する懸念は私も感じている。しかし著者の考察やそれに対する処方箋は全く役立ちそうにない。著者が「下流」と表現する新しい階層集団の若者にとって、すでに階層という概念は崩壊し脱構築させられている。そのような現状において旧来の構造を示して、説得したところで効果は小さい。
 もっと言えば、現状の社会システムに対する真摯な問いかけを著者からは一切感じられない。自分の立ち位置を確保(つまり自分は上流を目指す先天的にも後天的にも「あるべき」人間だと設定)した上で、安全地帯から表層に対してものを言っているにすぎない。「信じること」を一度はやめ、現在の超越を試みる思考とそれに付随する苦悩が感じられない。基本的には著者の主張は理解できるし、論理構築は全く違えどもアウトプットとして出てくるものは私と同じものも少なからずある。しかし私はその違いを重視したい。そうでなければ時代を超える議論は成立し得ないのだ。

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2005年 9月 29日

秋月高太郎『ありえない日本語』ちくま新書

投稿者 by tak@taknews.net at 10:37 / カテゴリ: 09書評 / 27 コメント / 0 トラックバック

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ありえない日本語

 「近頃の若いもんは」 この類のことばは古代エジプト時代からあったとも言われている。そして今でも若者の言動は往々にして非難の的にされやすい。その中でも「ことばの乱れ」は昨今の「日本語ブーム」もあり、よく指摘されるところだ。その「ことばの乱れ」のメカニズムを言語学的及び社会学的アプローチで紐解き、決して「乱れ」ているわけではないと示すのが本書だ。
 形式は一章完結型で、それぞれひとつの言語変化について書かれている。例えば序章では「あってはならない」、第一章では「なにげに」を取り上げている。このように一章ごとに単独で、ことばの変化の裏に潜む論理を紐解いたおかげで非常に読みやすく容易に理解できる。
 しかし細かく考察すると、言語学的アプローチも社会学的アプローチも中途半端と言わざる終えない。まずは前者から考える。言語学的には文法的考察とことばの間のネットワークについて論じている。文法的考察は納得できるのだが、ネットワークについては曖昧だ。ことばは相互に結びついていて、そのネットワークを通してことばが変化する、という説明は直感的には正しいのだが、そのメカニズムや理論の枠組みについては書かれていない。言語学者としての「色」が出てしまったのであろうが、生半可な状態であることは否めない。
 次に社会学的アプローチについて考察する。これも議論が中途半端だ。「空気を読み」「他人に干渉しない」若者像を背景にことばが変化している、ということ以上の意図を直接的に見出すことは出来なかった。確かに表面上の背景も重要なファクターであるが、その背景を形成している隠されたシステムまであぶりだしてこそ社会学的アプローチといえるのではないだろうか。
 ただ私の指摘は筆者の意図でもある『「ありえない日本語」はことばの乱れではない』という意見を批判しているわけではない。あくまで触りにすぎないが、若者のことばを咎める前に若者の表層心理や言葉の変化の「正しさ」を理解する入門書としては適切な書だ。秋月氏は学者ということで、少々厳しく書いてしまったが。

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2005年 9月 08日

鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」

投稿者 by tak@taknews.net at 16:07 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

カーニヴァル化する社会
カーニヴァル化する社会

 知ってか知らずか私たちは絶えず「データベース」にアクセスし、そして自らのデータもそこに登録している。その「データベース」と「カーニヴァル」の共犯関係こそが現代社会を示しうる枠組みではないかと筆者は捉えている。
 本書で示されている具体例を挙げよう。オンライン書店最大手のAmazonでは「おすすめ商品」というものがある。この「おすすめ商品」の選定はデータベースと、そこからデータを引き出すアルゴリズムによって決定している。では何がそのデータベースを形成しているのかというと、それは私たちの購入履歴だ。Amazonで商品を購入するとそのデータがデータベースに登録され、それを基に嗜好にあった「おすすめ商品」を提示する。「このおすすめ商品は私が欲していたものだ!」とハイ・テンションになりそれを購入し、またデータベースに登録され・・・・この際限なき繰り返しこそが筆者の言う共犯関係なのだ。
 このような「監視社会」(「監視国家」ではない)以外に若者の就業問題と携帯電話についても同様の構図を筆者は持ち出している。どの場面においても「鬱状態」でデータベースに問い合わせ、そこからアルゴリズムによって算出された偶然の結果から「人間的理由」を見いだし、躁状態の「カーニヴァル」に持っていく。これを延々と繰り返し、知性を外部データベースとし、それが所与「宿命」であると捉え生きていると筆者は言う。
 この書は筆者も認識している通り直接的に処方箋の提示しているのではなく、各論を考察する中で現代社会が「いかにしてあるのか」を示している。そのためやや散漫でわかりにくい印象を持ちかねないが、現代社会のあり方を考察していく上で知識的枠組みを構成する大きな一助となる本だ。

余談:ただアマゾンの評価が割れている点も幾ばくか理解できる。筆者と少なからず関係がある宮台真司や東浩紀のようなキレはないといっていいかも。

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2005年 9月 04日

佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』

投稿者 by tak@taknews.net at 15:40 / カテゴリ: 09書評 / 1 コメント / 0 トラックバック

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)
八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

 道行く人に「終戦記念日はいつ?」と問われたら何と答えるだろうか。ほとんど全員の人が「8月15日」と自信を持って答えるだろう。しかし、そのあまりにも当たり前な「8月15日」は神話であると本書は指摘する。
 ここで「終戦記念日」について整理してみよう。事実上、終戦が決定したポツダム宣言受諾は8月14日。形式的にも終戦が決定したミズーリ艦上での降伏文章調印は9月2日。さらに大日本帝国から米国の占領を経て日本国となったと考えるのであれば、サンフランシスコ講和条約が発効された4月28日も「候補」となろう。では最後になった8月15日は何かといえば、玉音放送があったこと(だけ)に尽きる。つまり8月15日の「論理」は他の候補に比べて非常に弱い。
 その「論理」としてはあまりに脆弱な「8月15日」が、強固な「記憶」となるプロセスにはメディアが大いに絡んでいるのは想像がつくところだ。本書ではそのメディアの動きを玉音放送とその直後の「終戦創造」から後に終戦記念日を醸成していく新聞報道、お盆のラジオ放送や歴史教科書の記述の検証を通じて「8月15日の神話」を紐解いている。そして筆者はその神話により、記憶=歴史は選択され また選択されなかったものは忘却されていくと言う。事実、私たちが日ごろ目にする「風化させてはならない先の戦争」とはある特定の性格を持った「回顧録」に集約できるのではなかろうか。
 線香の立ち上る「8月15日」に先の大戦に想いを巡らすことも悪くはない。しかし一方で感情論ではなく、論理的に先の大戦を再考する「9月2日」を意識する必要性が私たちにはある。語り継ぐ悲哀だけでは「戦後」は終わらない。

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2004年 7月 06日

村上龍『限りなく透明に近いブルー』

投稿者 by tak@taknews.net at 13:55 / カテゴリ: 09書評 / 0 コメント / 0 トラックバック
限りなく透明に近いブルー

今回は村上龍デビュー作限りなく透明に近いブルーを選んだ。
(映画69や新作長編の発表を控え村上龍の宣伝隊員みたいだが偶然ですので・・・)

感想はさほど強いものはなかった。まずは前半と後半が明らかに転調していることが引っかかる。
前半の麻薬とセックス、米軍、黒人などの記号の氾濫はかなり退屈で何度も読むのやめようかと思った。麻薬とセックスに嫌悪感を感じるのではない。本当に退屈なのだ。
記号性を散々いって終わるのかと思えば後半は転調する。その内容は記号と戯れることの先に透き通った美しさへと帰結する。日々の戯れの美しさ。意味なきものへのコミットメント、いや意味なきものしかない世界。その中にある美しさ。

但し上記のことを村上龍氏がそこまで考えていたのかは少し微妙だ。
題名も当初は「クリトリスにバター」だったことから考えて村上龍が意図的に帰結に向かって書いたのではないように思う。もし「限りなく透明に近いブルー」という帰結をはじめから意識できていれば「クリトリスにバター」なんていう題名で応募するわけがない。

江藤淳が「こいつには芥川賞はやれん」と怒られたのもどうも文学の転換期と思われているかもしれないがそれは違う。江藤先生は意味なき記号の集合の中に「限りなく透明に近いブルー」を見つけるという言説に我慢がならなかったのであろう。康夫ちゃんの「なんとなく、クリスタル」も記号と戯れるのであるがそれはあくまで「なんとなく、」であり敢えて戯れていたのである。
しかし「限りなく〜」は記号と戯れるしかない、それが当然である。その点に江藤先生は気に食わなかったのであろう。(江藤先生の言っていることは半分以上は反対ですが)さらにいうなら評を読む限り他の選者はどうもこの点を考えていなかったように思う。その点も江藤氏をいらつかせたのかもしれない。

私は「なんとなく、クリスタル」か「限りなく〜」なら前者の方が好きだ。ただしだからといってこの二作品が伝えたことを現実と共に考えた場合に田中氏の言及の方を必ず支持するというわけではない。そこのところはこれからもずっとずっと考えなければならない。

この作品は悪いように書きましたがこのような議論を提供できる作品でありこの前の芥川賞とは比べ物にならないくらい重要な作品だ。だからこそ村上龍が金谷ひとみを押した理由がわからない。彼の中で転調が起こっていないとすれば私の読みは深読みかもしれない。

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2004年 5月 26日

田中康夫『なんとなく、クリスタル』

投稿者 by tak@taknews.net at 22:31 / カテゴリ: 09書評 / 0 コメント / 0 トラックバック
なんとなく、クリスタル

小説について私が書評するのでしたらまずこの作品は外せませんでした。
読んで共感したとかではありません。そもそも今日はじめて読みました。
ただ文学の変遷を見るうえで村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」と「なんとなく、クリスタル」はひとつのターニングポイントだと一般的に見られていて、かつ自分自身そう思ってきたからです。
前置きはこのくらいにして本題に入りましょう。

まず読了後の感想は故・江藤淳氏がこの作品を芥川賞に押した理由がわかりました。
端的に言えば「去勢されていない日本」を漂わせているからでしょう。(「限りなく〜」を読んで比較しようと思います。)
具体的に書きますとほとんど全編で主人公が記号と戯れているだけなのですが、その基盤として代替不可能な確固たる物があることを前提にしています。
日々は「なんとなく」気分で移ろう。店やブランドを決めていてもそれ以上に「気分のいい方」が現れれば即乗換えだ。昨日が今日になっても大差はない。正隆に電話をしたのも他にいなかったからに過ぎない。
442個にものぼる註の数(当初はもう少し少なかったのですが)も記号の集積たる東京をまざまざと見せ付ける。

しかしその一方「バニティー」な暮らしは永続しない点を本文の最後や註の後につく人口問題のグラフでにおわせる。
それは裏返せば戯れみのみで生きていくことはできないと暗示している。
また主人公は淳一を唯一無二の人間として扱っている。
いくら記号と戯れようともセックスでいけるのは淳一とだけ。
また普段はお互いの浮気をなんとも思わないけど一度だけ淳一の浮気に焦りを感じる。
それは相手の子が自分と代替可能である可能性を直感的に感じ取ったのだろう。
ただの記号の戯れなら構わない。しかし己も記号の一部となることはたまらなく苦痛に思う。
それも自らの代替不可能な存在であらんことを願う感情であろう。

一言で言うなら1980年、急速に記号化する街、東京で代替不可能なものをバックグランドとしながらも代替可能なものと戯れることを書いた小説だ。

現代への提言はまたいずれ・・・

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2004年 5月 13日

本多勝一『書評ー戦場の村』

投稿者 by tak@taknews.net at 09:51 / カテゴリ: 09書評 / 0 コメント / 0 トラックバック
戦場の村

戦場の村

今回の書評はとある課題で自由気ままに書いたものではなく1200字の制限、それも新聞などに載せることを(勝手に)考慮して±10字ほどの許容しか許されないという設定で書いてあります。(実際には1205字)
また本来ならもっと本多氏に対するアンビバレントな感情を出したかったのですがモデラートぎみに意図的に書いたのと単純に自らの文
章を書く上での後天的な能力が未発達のため満足いく出来ではありません。
しかしこれが自分の現状ということで納得はしています。

ーーーーここからーーーーー
「嫌よ嫌よも好きのうち」 この言葉を真とするならば本多勝一ほど「愛される」ジャーナリストはいないだろう。彼の持つ内発的衝動の昇華ともいえる行動力ならびに己の五感で感ずることを「ダイレクト」に綴ることができる能力を持ち合わせた日本人記者は前にも後にも彼一人と言えよう。その筆をしたためる技術と解き放たれる人間臭さは多くの人間を魅了し続けている。しかしその反面、己の体感に頼りすぎるがために裏をとることや取材源の信憑性への調査が乏しい。また始めから結果ありきと思われかねない取材スタイルは当然批判の的となりえた。その点から彼は多くの敵対者も同時に作り続けている。以上のような彼の「資質」がこの書でも遺憾なく発揮されている。
本書は本多氏の1996年12月から翌年10月にかけてのベトナム共和国においての現地取材を元に書かれたルポルタージュである。彼は前著「カナダエスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」の秘境三部作において非常に高い評価を受けていた。そこで培われた文化人類学的手法が本書でも存分に生かされている。六部構成の本書の中で前半四部(サイゴンの市民、山地の人々、デルタの農民、中部の漁民)は実際に現地の家に滞在してのルポを中心とし、そこで描かれている日々の暮らしは秘境三部作と同じく現地の人々の酸っぱい臭いを放つが脈々と流れる見えざるものに懐かしさを感じ、もう一度嗅ぎたくなってしまうような日常そのものであった。その日々の中で何の罪もなき民衆がこの戦の一番の被害者となっている現状を彼らの日々の生活を綴るのと同じように民衆の目線から語られているのが胸を打つ。
後半の第五部戦場の村、第六部解放戦線ではそれぞれ米軍への同行取材、解放戦線の村での生活を主に綴ったいわば戦争の両当事者側からの取材である。地の利を生かされ数的優位を克服されるゲリラ戦を物理的に無くすために行われた米軍焦土作戦。泣き叫ぶ民衆。縦横無尽に走り稲をなぎ倒す戦車。ただただじっと知らないふりをする民衆。すべてがあまりに痛くそして粛々と進んでいく。その影で祖国解放を願い静かに、ひっそりと、しかし野望に満ちた若人たちが「傀儡軍」討伐のチャンスを待つ解放軍。すべてがレールに乗って「しかるべき場」へ進んでいく。
べトちゃんドクちゃんも記憶の中から消えつつある日本人にとってベトナムとは今やさっぱりおいしい「生春巻き」とセクシー民族衣装「アオザイ」の国になってしまった。ものの30年前の悲劇を日本での生活の中で喚起することはもはや不可能だ。この書を通じて現代にも通じる米国の独善的自由の代償を考えるのもいい。理由はどうあれ常に民衆が一番の被害者である戦争を再考してもいい。用意された「戦争」「戦後」に目を向けてもいい。間接的ではあるが良くも悪くもあの時代に日本を充満していた「英気」を感じ取るのもいいだろう。いずれにせよ「感じる」一冊だ。

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