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 ◆パク・チャヌク『親切なクムジャさん』2005
 ◆ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』2003
 ◆パク・チャヌク復讐三部作オールナイト一挙公開(とりあえず簡単なコメント)
 ◆テオ・アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』1991
 ◆テオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」1988
 ◆キム・ギドク『サマリア』2004
 ◆ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』2000
 ◆佐々部清『半落ち』2004
 ◆犬童一心『死に花』2004
 ◆チャン・イーモウ『HERO 英雄」2002
 ◆チアン・ウェン『鬼が来た!』2000
 ◆マイケル・ウィンターボトム『ウェルカム・トゥ・サラエボ』1997
 ◆四ノ宮浩『忘れられた子供たち スカベンジャー』1995
 ◆ジョン・リー・ハンコック『オールド・ルーキー』2002
 ◆土屋豊『新しい神様』1999
 ◆Errol Morris『THE FOG OF WAR〜フォッグ・オブ・ウォー〜』2004
 ◆マイケル・ムーア『華氏911』2004
 ◆みうらじゅん『みうらじゅんの勝手にJAPAN TOUR2003 −TOUR FINAL Special Version−』2003
 ◆マイケル・ムーア『ロジャー&ミー 特別版』1989
 ◆リドリー・スコット『ブラックホーク ダウン』2001
 ◆ダイ・シージエ『小さな中国のお針子』2002
 ◆ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』1987
 ◆北野武『Dolls(ドールズ)』2002
 ◆エドワード・ズウィック『ラストサムライ』2003
 ◆メル・ギブソン『パッション THE PASSION OF THE CHRIST』2004

2006年 5月 22日

パク・チャヌク『親切なクムジャさん』2005

投稿者 by tak@taknews.net at 11:02 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 155 コメント / 1 トラックバック

DVD
DVD

ネタバレしまくりです!

 パク・チャヌク復讐三部作の最終作。自分の娘の命と引き換えに少年誘拐殺人の罪を被ったクムジャさん(イ・ヨンエ)の復讐劇。クムジャさんは刑務所内で囚人たちに恩を売っていく。その恩恵を受けた人々がクムジャさんの復讐を手伝う物語。
 この作品で復讐の対象となるのはぺク先生(チェ・ミンシク)だけで、復讐三部作の中では最も落ち着いているといえるだろう。しかし他二作に比べて相当コミカルなシーンが多いために観客は居心地悪い感情を抱いたのではないだろうか。

 例えば他二作とは違い、復讐シーンは相当コミカルな演出がされている。そのコミカルな私刑が続く中で、社会的には「忌むべき」存在であるペドフェリアと思しきペク先生よりも、被復讐者(=ペク先生に子供を殺された親たち)の異常さが炙り出されてくる。そう、コミカルな演出によるオブラートは表面であり、そのコミカルさは居心地の悪さと連動し観客を嫌な気分にさせる。その「気持ち悪さ」を感じさせる姿を、パク・チャヌクもほくそえんで見ているような気がしてならない。他にも刑務所の描写を中心とし、多くのコミカルなシーンがちりばめられている。これは様々な効果を狙って置かれているのだろう。パク・チャヌクは私たちの反応(笑うかどうか、笑い方はどんなものか)を確かめて楽しんでいるに違いない。それがいかにも「試されている」ようなのが嫌な感じを受ける、と感じるのは深読みだろうか?

 話はそれたがラストシーンについて一つ。ラストはクムジャさんの心は洗われ、彼女が娘と共に「リスタート」を切ることが明示される。ここの評価は難しい。ここで少しペク先生との繋がりをネタバレする。ペク先生との関係は犯行の身代わりになってからではなく、高校の時に教育実習で知り合い身ごもったときに相談した仲だったのだ。そこから始まった悲劇の様を考えれば、少々安易な「リスタート」も悪くはない。またクムジャさんが復讐のために違う人間となっていたのもわかる(化粧などが違うことでも明示)。しかし、他の復讐二作品と比べて、生ぬるく感じえてならない。それは復讐者に対して生ぬるいということだ。しかし、今回の復讐劇の形式(クムジャさんはペク先生を殺していない)こともあり、まっとうなオチとも思える。いや、このようなオチにするために、復讐劇の形を変えたのかもしれない。いずれにせよ、これらの点はできれば三部作の復讐内容を振り返ってもう少し整理したい。

(なんか散漫でいい加減な駄文を晒してしまった…やはりコンスタントに書かないとダメだ)

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2006年 4月 18日

ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』2003

投稿者 by tak@taknews.net at 11:02 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 997 コメント / 1 トラックバック

ドッグヴィル スタンダード・エディション
ドッグヴィル スタンダード・エディション
ドッグヴィル

(ネタバレ注意)

 飛行機嫌いのためアメリカに行ったことのないトリアーが、アメリカを撮ることを試みた作品。また彼のアメリカ三部作の第一部でもある(第二部「マンダレイ」は現在上映中)。いや、そのような「アメリカを撮った」という「薀蓄」が先行してしまった映画と言うべきかもしれない。アメリカを表していると言ってもいいが、(主に北側諸国の)人間を表していると拡大解釈できる面が大いにある。つまり、アメリカをせせら笑う態度で見る前に、切先を自分に突きつける必要がありうる作品ということだ。(しかし以後では敢えてアメリカについてのみ言及する。)

 ストーリーは非常に単純明快だ。ギャングに追われ村に逃げてきたグレース(ニコール・キッドマン)をドッグヴィルに住むトム(ポール・ベタニー)が匿おうとする。匿ってもらう代価としてグレースは働き、村人に気に入られようしながら最終的に破綻を引き起こすのだ。グレースは村人から虐げられ、ついにトムがギャングに通報する。しかしグレースはギャングのボスの娘であり、彼女の決断によりドッグヴィルは焼き討ちにされ、村は消されるのだ。

 この映画の最大の特徴は家の壁がないことだろう。壁を取っ払うことにより、街の人々の動きが見えてしまうのだ。日常生活はもちろん見えるのだが、そこにある「関係性」を嫌と言うほど見せ付けられるのだ。例えば新入りのグレースが各家で働いている姿を何気なく「監視」しようとしている周りの目線が、否応なく表象化してしまう。壁がある普通のセットなら、村人の視線を直接的に感じることはできないのだが。
 一方で監視しようとする繋がりへの関係性ばかりではなく、その裏返しである関係性のなさも同時に見せ付けるのだ。グレースがレイプされているときも村人は何も起こっていないかの如く、普段通りの生活を営んでいる。いや、本来なら気づかないのが通常である。しかし、壁がないことによって意図的に無視しているように見えるのだ。壁がないことにより見えてしまう「関係性」は、あまりにも冷たいのだ。それを聴衆に見せつける手段を、トリアーは選んだのだ。

 ここでストーリーと壁のないセットについて説明したので、ここからは「アメリカ」について考えよう。まず疑問にあがるのはアメリカは誰だ?ということだろう。選択肢は二つある。村かギャング団かだ。私は最も単純ではあるが村をアメリカ、村人をアメリカ人とした。その理由はドッグヴィルの形がアメリカに似ていることや村人の多様性など表面的なものだけではない。この映画を動かす大きな力学が、アメリカのそれそのものに近いのだ。

 それは「契約」である。少々冗長だが「自己本位の『論理関係』に基づいたバーター関係を求める契約」と限定してもいいだろう。始めは「匿ってあげるから村人のために働く」だったのだが、グレースが指名手配されたとなると「警察に追われているグレースを匿うというリスクを冒しているから村人のために二倍働く」という論理関係をドッグヴィル(アメリカ)はさも当然のように提示して行く。さらにただの労働者であったグレースを女として認識し熟れた果実のように感じれば、理由をつけて正当化しつつレイプをするのだ。もちろんいかにも真っ当であるようないい訳を吐きながら。さらにはグレースの味方であったトムも「他の男がやってるのだから、俺にもやらせろ」「果実を守ったきたのだから味わう権利がある」という論理をだし、プラトニックな関係を求め続けたグレースを裏切るのだ。

 その姿がアメリカに意図的戦略というよりは、当たり前の思考法として根付いている似非論理的思考やダブルスタンダードが見えて仕方ないのだ。これらの思考法は自らを中心と置き、それにより価値判断をするばかりかそれを正当化する愚行である。さらには事故を中心と置くために自分と関係ないことは無関心でいることができる貧困しきった精神。America as No.1と快哉を叫び、グローバライゼーションと言う名のアメリカン・ローカル化を推し進める傲慢で教養のない者たち。それをドッグヴィルとその住人たちが、表しているのではないだろうか。

 しかしそんなものたちもシステムにより生み出されているのだ。ドッグヴィルに生まれ、育てば自ずとそうなってしまうのだ。賤しい人間は生来そうなのではなく、システムによって産み落とされたのだ。グレースはそれを理解し、我慢し続けた。しかし最後の最後で村を焼討ちにしてしまう。それは円環的に同じ「動物」を製造し続けるシステム自体への直接的変革の断念だったのだ。それを諦めたグレースは、その円環的悪循環を止める作法として最後の手段を使ったのだ。それは、ある種の絶望ではないのだろうか。現実のアメリカに対して「最後の手段」をを使うことは、選択肢としては残されているとはいえ。(このご時世だから一応書いておくと、私がそうしたいなんて微塵もおもってないので 汗)

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2005年 11月 12日

パク・チャヌク復讐三部作オールナイト一挙公開(とりあえず簡単なコメント)

投稿者 by tak@taknews.net at 18:46 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 2 コメント / 1 トラックバック

 「親切なクムジャさん」は今日から封切りだが、昨日22時からあった公開前夜祭「復讐三部作」オールナイト一挙公開に行って来て一足先に見てきた。実はパク・チャヌク監督の復讐三部作の先行の二つ「オールド・ボーイ」「復讐者に憐れみを」も初めて見た。どの作品もテンポがいいので、見事寝ないで朝を迎えた。詳細はまた近いうちに映画評論に書こうと思うけど、とりあえず一言コメントだけでも。

・クムジャさん
コミカルで笑わせるシーン(但しそのコミカルさを単純な笑いとだけとっていてはだめだろう)もあり、娯楽性もある程度示した復讐のストーリー。三作品の中で複雑性がもっとも低いということもあり、ストーリーを単純に追うだけなら最も楽しめるのではないかと思う。途中の宮台真司氏のトークショーのときに「三作品で一番好きなのは?」の観客に質問したらクムジャさんをあげた人は女性がほとんどだった。けっこう興味深い。
復讐シーンをコミカルに見てしまうか、社会的制裁者としてのクムジャさんの存在とそれに先導される狂った「一般人」の構図を読むかによって判断は分かれるように思った。私は後者であるが、後者でとるとラストシーンは生ぬるさを感じてしまうことを禁じえない。

・オールドボーイ
復讐者×復讐者のストーリー。復讐者が被復讐者を意図的に復讐者に変容させ、生きる目的としての復讐を「貫徹」させようとしている。また変容させられた方の復讐者は自分が復讐者にさせられた謎を探る。その歴史を辿りきることによりお互いがある種の赦しを得て終わる。「復讐が生きること」 これがキー。


・復讐者に憐れみを
三作品の中でもっともよかった。小さなずれが重なり壮大な復讐劇となる。しかしそこにはありようのなさというものはなく、プロットは相当に練られている。またdetailもかなり練られていて、その意味を逐一考えていくだけで相当いろいろ考えられる。救いのなさとしては復讐劇の「オーソドックス」と言えるだろうが、下手をするとただの殺しあいの果てのすっきり系で終わってしまう。それをさせないだけ練られた素晴らしいものだった。

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2005年 10月 30日

テオ・アンゲロプロス『こうのとり、たちずさんで』1991

投稿者 by tak@taknews.net at 15:48 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック

テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX II


テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX II
(今回はストーリーに沿って書いていないのでネタバレはほとんどなし)

 私たちの想像する「ギリシア」とはどのような姿だろう。ハレーションを起こしそうなくらいに白い壁の家々、からっと晴れ渡る青い空、オリーブの実。古代ギリシアのイメージも相まって、地中海気候で暖かい「海洋」国家というイメージではないだろうか。しかし、それがすべてではない。実際には多民族国家であり、凍てつく冬が訪れる北部の国境線は海ではなく4つの国、それも東欧諸国と隣接している。

 この映画は、そのギリシア北部が舞台だ。難民申請者が待機する国境の街、通称「待合室」が舞台となる。取材に来たジャーナリスト、アレクサンドロス(ちなみに『霧の中の風景』の弟もアレクサンドロス)は難民たちの中に失踪した大物政治家らしき人物を見つける。アレクサンドロスは彼の正体を確かめる過程で「越境」について考えあぐねるのだ。

 橋の真ん中にペンキで線が引かれただけの国境。国境は越えたが、足止めを食う難民たち。国外に生まれたため、民族の証として腕にナイフの傷跡があるギリシア人青年。国境で引き裂かれる民族。そしてすべてを捨て去り旅にでた大物政治家。

 時代は東西の緊張関係が急激に解かれ始め、世界が平和に向かうという考えが蔓延していた時代。「グローバライゼーション」「世界市民」なる言葉が闊歩しだす時代。そんな時代に浮ついて表面上の越境に終始し、物理的越境に過ぎないものから「縮まる世界」を声高らかにうたう者たち。

 一方で映画の世界では「大物政治家」が失踪前に「世紀末の憂鬱」というベストセラーを出している。その対比は決してシニカルなものではない。ただの無根拠に不安を醸成する世紀末思想でもない。東西の緊張関係が急激に解かれ始め、先述の世界が安定的になるのではないかという過度な楽観主義に安住する者たちへの憂鬱と、表面上の(偽りの)「越境」でインターナショナルだとかグローバルだということの偽りに気づいた憂鬱を抱きしめるしかなかったのだ。

 ラストシーンは電柱にラインマンがのぼり、電線を琴線の如くピンと張っていく。ただ川岸に立ち尽くすアレクサンドロス。対岸=隣国にあるカメラは徐々に引いて全景を映し出していく。電柱に登っても川岸で立ち尽くしても「越境」はできない。物理的にさえできない。況や真の「越境」は言わずもがな。しかしその認識がスタートとなりうるのではないか。最後に曇天は流れ、少しばかり青空が見えるではないか。浮かれる時代に絶望を感じることが始まりなのだ。

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2005年 10月 15日

テオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」1988

投稿者 by tak@taknews.net at 23:27 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 2 コメント / 1 トラックバック

テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX III


テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX III
テオ・アンゲロプロス全集 I~IV DVD-BOX III

(完全にネタバレ)

 11歳の姉ヴーラと5歳の弟アレクサンドロスが、ドイツにいるという父を探しにアテネから旅をするストーリー。姉弟は父に一目あいに行くために、国際列車に飛び乗る。その道中で起こる様々な体験を通して二人は大人になっていく。いや、「大人」やら「成長」なんていう陳腐なものではない。世界の「在りよう」を身をもって「体感」していくのだ。

 そのモチーフのためにアンゲロプロスは様々な仕掛けを施す。雪が振る中で時が止まったように動かなくなる人々。どんちゃん騒ぎの結婚披露宴から逃げ出す花嫁、そしてその傍らで死に瀕する馬。海中から吊り上げられ除去される、ギリシア神話の象徴とも思える巨大な手の像。冬の海岸でのヴーラの初恋・・・

 すべてが計算されて粛々と執り行われている。どれもリアリズムの見地から言えばナンセンスに近い。しかしその(狭義の)「リアリズム」は決して「世界」ではない。いま、この「時代」を第一義的に考えていては、「世界」を知ることはない。しかし、我々の周りには憂うこともなく「時代」が過ぎていっているのではないだろうか。

 映画の中では、ひとつの演目のみを上映し続けてきた旅芸人一座は「時代」のせいで、もはや演じることさえ出来ない。鉄道でつながっているドイツにも今の「時代」には「国境」というには人為的な境がある。もはや私たちの声は(狭義の)現前性しか帯びえなくなっている。しかし、世界を知る先に希望のかけらはある。映画でも全編に渡り曇りの天気だが、うっすらと太陽の光を感じているではないか。

 ギリシアとドイツの間に「国境」があることも知らなかった二人は、ついに国境の川へとたどり着く。真っ暗闇をボートで漕ぎ出すと国境警備隊に「待て!」と言われ、銃声が鳴り響く。目を覚ますとそこにはドイツにいる父--それは霧の向こうにある一本の木--にめぐり合うのだ。

 このラストシーンは「銃声が鳴り響いた後の霧の中」=「死後の世界」とも取れる。しかし霧に包まれたシーンでアレクサンドロスはヴーラから聞いていたお話をする。「始めに混沌があった」「それから光が来た」 創世記だ。二人は混沌を痛切なまでに「体感」し、「光」を感じた。ここが始まりなのだ。死んだら終わり、などという陳腐な議論はいらない。「世界」は開かれる可能性を帯びたのだ。心締め付ける混沌の先に、見つかるものが「出発点」なのだ。


(追記)際限なく書く気になれば無知なりに書けたと思うが、意図的にある程度の字数で切り上げるにはちょっと難しい・・・あらすじを語ってメッセージにつなぐには、この映画は前編に渡り、美しく切なく語られているのでうまくできなかった。技量不足。

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2005年 7月 06日

キム・ギドク『サマリア』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 00:00 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック

サマリア
サマリア

 大親友であるチェヨン(ハン・ヨルム)とヨジン(クァク・チミン)はヨーロッパ旅行に行くお金を稼ぐためにチョヨンが売春における「性行為」をし、ヨジンがそのセッティングや見張りから金銭の管理まで「性行為以外のすべて」を統括していた。いつも陽気に笑うチョヨンと売春を汚いものとみなすヨジンの別れは突如訪れる。チョヨンが死んだのだ。ここで一身同体であった二人の糸は切れてしまう。

 その死に方が即死でなかった事が後にヨジンの処女を奪うことになる。さらに展開が背中を押すことになりヨジンはチョヨンと寝た「汚れた」男たちにお金を返し、かつ寝ることへと発展していく。「自分のせい」で死んだチョヨンへの償いのために。

 そしてそれを偶然目撃したヨジンの父・ヨンギ(イ・オル)は娘と寝る男たちに制裁を加えることとなる。ただ怒りに任せてことに及んでいるわけではない。それは「受容」することの「痛み」なのだ。娘が売春をしているという事実を受け入れる痛みなのだ。現実は痛みなのだ。

 ヨンギの制裁はエスカレートしていきヨジンと寝た男(ヨジンもこの男で「償い」が終わった)を殺害するに至る。その後に突然ヨンギは妻の墓参りにヨジンと行く。そこで赦しの存在としての「質的強さ」を持っていたと思われたヨジンは「超越」していたのではなく限りなく「闘争」していたのだと気づかされる。そこにありがちな寛容はない。(情けない「男」である私は少々安心をするのでもあるが。)そこには事実のみがあり、そして現実が残されているだけである。ヨジンと闘争がこれからも延々と続くであろう事を暗示して。

追伸:うまく書けず・・・ちなみに今年に入ってから映画はほとんでみていません。

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2004年 11月 24日

ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』2000

投稿者 by tak@taknews.net at 12:39 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 2 コメント / 1 トラックバック

ダンサー・イン・ザ・ダーク
ダンサー・イン・ザ・ダーク

出演 ビョーク , カトリーヌ・ドヌーヴ , デビット・モース , ピーター・ストーメア , ジャン・マルク・バール , ジョエル・グレなど

 舞台は1960年代のアメリカ。チェコからの移民・セルマ(ビョーク)はいずれ失明する運命にあった。その病は遺伝病であり、息子もいずれ失明する運命にある。セルマは息子に手術を受けさせるために苦心して金を貯め続ける。しかし、そのお金が原因となり隣人の警察官をあやめてしまうこととなる。その刑罰として無常にも死刑判決が出るが、私選弁護人を雇えば減刑の可能性は非常に高かった。しかし弁護費用を払えば息子の手術費がなくなる。息子の手術費に手をつけることはできず、極刑をセルマは受け入れる。

 この映画の見所はなんといってもミュージカルのシーンだ。アイスランドの歌姫・ビョーク扮するセルマの妄想という形で全編に散りばめられたミュージカルは、圧倒的な歌唱力に支えられて音の世界をエクスパンドし、観衆を包みこむ。また妄想である点も示唆に富む。現実をミュージカルにしてしまうと、どうしても「うそ臭さ」が出てしまい毛嫌いする人も少なからず出てしまう、という理由だけではない。そこには他の人にはわかりえないが、セルマのうちに広がる妄想という場を借りた「世界」から湧き上がるものであるからこそ、意味を成すものがある。仮に「現実」を「現前する事象」とするならば、「世界」は「現実」よりも、確実に大きいものである。セルマのミュージカルが「現前する事象」でないからこそ、世界の広がりを見せる役割も果たしているのだ。
 ラストシーンの死刑は非常に辛いものがあった。今までに数々の「死刑」映像を見てきた。本物の死刑から(実際には)嘘の映画の死刑まで何十本も。しかし、これほど吐き気を覚えたものはなかった。最近、風邪のせいか胃の調子が悪いのを差し引いても 十分にダメージは大きい。ではラストの死刑のシーンは残酷さがあるか?と問われれば答えはNOだ。むしろ死刑執行を直前に控えた息子の手術が成功したことを知り、伸びやかに歌うセルマからは死刑の残酷さを包み隠しているという批判も聞こえる。しかしそれでも、いやそうであるからこそ、辛いのだ。セルマは自らが死を遂げることにより後の世代に光--それは実際に目から入り網膜に映るものではない--を照らし出し、その淡い光りに染められた私は その波動を受け止め、胸を痛め、立ち尽くすしかなかったのだ。

 私以外にもそのような感想を持った方は少なからずいるようだが、イエス・キリストの最期を想起させる。キリストは何故に復活したのか。それは実際に生き返ったとか瀕死であったが死んでいなかったとかいう議論を超えて、そこには強い動機付けが作用したのであると私は考えている。セルマの死は現実逃避などではない。死ぬ間際に歌った「最後から二番目の歌」=「終わりがなく永遠に各々の世界で続く」ことを忘れてはならない。そう、セルマのよき理解者・キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)や相思相愛であったジェフ(ピーター・ストーメア)が死刑に立ち会ったのは必然なのだ。彼らはセルマからの最後の動機付けを感じ、その「世界」を存命させ続ける責務を負うために、出席しなければならなかったのだ。言うまでもないが スクリーンを通して目撃した私たちにも同様の責務があるのは、間違いない。


つけたし
 ただやはり「健康至上主義」だという批判は免れえないかと思います。しかし目が見えなくなるというのは一つのネタというよりメタファーだと捉えているので個人的には嫌悪感はさほど感じません。しかしメタファーの選び方が、歴史的な問題を考えても、ちょっと安易だったかなとは思います。私が監督なら同じような作品にはしないで、目で見えるものが「世界」ではなく、己の中に広がるものが「世界」だというオチを強調したと思います。ラストシーンはセルマの歌声があたりに広がり、外にいたキャシーたちに降り注ぐという感じですかね。(妄想
 しかし私は「世界」は可視なものだけではなく、不可視なものの際限のない膨張も「世界」だということを感じていながらも、自分の子供が病気なら健康至上主義になると思います。そこの折り合いをこの作品はつけられなかった(もしくはつけなかった)と好意的に解釈しました。

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2004年 11月 22日

佐々部清『半落ち』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 23:08 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 2 コメント / 0 トラックバック

半落ち
半落ち

出演 寺尾聰 , 原田美枝子 , 柴田恭兵 , 吉岡秀隆 , 鶴田真由 , 伊原剛など
原作 横山秀夫
公式ウェブサイト http://www.hanochi.jp/

 一人の元敏腕刑事(事件時は教養課所属)梶聡一郎(寺尾聰)が妻・啓子(原田美枝子)を殺したと自首してきた。「殺してくれ」と頼んだアルツハイマー病の妻に手をかけた嘱託殺人として難なく解決するように思われた。しかし梶は殺害から自首するまでの二日間については話そうとはしない。警察署はダメージを最小にしようと何としてでも梶自身も死に場所を求めて県内を彷徨っていたという「おち」に持っていこうとする。その裏を察してか、梶もそのように自供する。しかし検事・佐瀬(伊原剛)と新聞記者・中尾(鶴田真由)は梶の隠蔽する「空白の二日間」を何とか暴こうとする。
 この作品が示唆する問題は多い。アルツハイマーの妻に手をかける梶。その一方痴呆症である父の介護を妻に任せきっている判事・藤林(吉岡秀隆)。梶は壊れていく妻が「人間でなく」なって白血病で死んだ息子のことまで忘れてしまう前に、息子の元へ向かう手伝いをする。一方、立派な裁判官であった父親の背中を見ながら育ってきた藤林は、壊れていく父親にも、寂寥感を感じつつも、「同一の主体」であると考える。しかしその父親の背中は今となっては徘徊した時のために名前と住所が書かれてある。あまりに虚しい親父の背中。その葛藤の中で梶に求刑通り懲役4年・執行猶予なしの厳刑に処す藤林。
 また嘱託殺人は当然に安楽死問題が絡んでくる。通常は大きな苦痛を感じつつ死期が非常に近い人のみが安楽死の議論対象となりうるが、この作品はもう一つの可能性を投げかけている。それは「人間でなく」なるときも人間としての生命を自ら奪ってもいいのかという疑問だ。個人的に思うところは別のところにあるのだが、今回は問題をキャストしただけで許してもらおう。
 さらには報道の本義にも矛先は向けられている。梶が何故「半落ち」だったのかといえばそれは自分が提供した骨髄で一命を取り留めた「歌舞伎町で一番小さなラーメン屋」で働く青年をマスコミの好奇の目にさらさないためだった。マスコミへの矛先は当然にマスコミを突き抜けて、それを消費する私たちにも刃を向いていることを忘れてはならない。
 たった一作でこれだけの問題を投げかけることができる作品はなかなか見当たらない。上記の問題以外にもこの作品が投げかけるものはまだまだある。原作が小説ということもあり、非常に厚く何層にも問題提起を包み込んだ秀作だ。

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犬童一心『死に花』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 23:07 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 9 コメント / 1 トラックバック

死に花
死に花

出演 山崎努 , 青島幸男 , 谷啓 , 宇津井健 , 長門勇 , 藤岡琢也など
公式ウェブサイト http://www.shinibana.net/
参考:ギャラリー死に花 http://shinibana.jp/

 唐突だが飛行機で私は絶対に眠ることができない。自分の位置エネルギーの大きさを考える度に昏倒しそうになりながら、ディスプレイに表示される飛行機の現在位置や到着予定時刻とにらめっこしつつ、一秒でも早い着陸を待ち続ける。今年の六月に現地時間深夜発→日本時間早朝成田着という、眠れれば最高のフライトに乗る機会があった。しかし予想通り眠れず、この映画を南シナ海上空でみた。多分このような機会がないと、この作品を観る機会は一生なかったであろう。事実、この作品も一度劇場で鑑賞している「ミスティック・リバー」を観た後に鑑賞した。観る優先順位は一度観た作品よりも低かったわけだ。「偶然性」を旅や映画は与えてくれる。

 与太話はこれくらいにしよう。ストーリーの概要はこうだ。高級老人ホームで悠々自適の生活を享受する老人たちに ある日転機が訪れた。仲間の源田(藤岡琢也)が亡くなった際に「死に花」と題されたノートが出てきた。それには地下を掘り進み銀行から17億円を強奪しようというとんでもない計画が書かれていた。やる気になった老人四人と穴掘りの開始地点に住んでいたホームレスの先山(長門勇)の五人が一致団結して17億円強奪に着手する。
 この作品の秀逸な点は娯楽性が非常にうまく織り成されている点だ。のらりくらりと「老人」を演じる ベテラン俳優の演技力もさることながらストーリーの絡みもうまい。やけに高級な老人ホームでのドタバタ喜劇を面白おかしく進める前半部。源田が死んでから野望に胸躍らせる四人。必死になって老人パワー全開、フルスロットルで掘り進める中盤。そして最後には源田の17億円強奪シナリオの新の目的が皆に共有される。それは掘ったところは先の大戦時には防空壕であり、そこには老人ホームの長老・青木(森繁久彌)の家族が眠っていたのだ。出てきた頭蓋骨と写真を痴呆が進む青木に手渡すラストシーンは感動的ですらある。このように喜怒哀楽を存分に楽しませてくれる作品は(良い意味で)娯楽作品として大成功している。
 またベテラン勢の中で老人ホームの新人職員・井上(星野真里)もボーイッシュで元気な女の子を演じ、若いパワーをうまく注入している。老人ホームのマドンナ・明日香(松原智恵子)と好対照で老人のパワーを受け止める若者として世代間の橋渡しを存分にこなした。
 もちろん、ただ元気の良い娯楽映画であるだけではない。老後の生活、老人介護、老人の職(まだまだ元気!)、老人の恋愛やセックスなど多くの問題提起が含まれている。これらの問題はもうすでに噴出している。特に今まで完璧に蓋をしてきた問題でもあり、試行錯誤がなされていないので早急に誰しもが考えなければならない問題だ。それに対する処方箋を提示したわけではないが、解決への道はこのストーリーで感じた「喜怒哀楽」がヒントになるのではなかろうか。

 襲撃した銀行が大きく傾き 隅田川へと倒壊し、朝を迎えた。台風内を通過していたときとは打って変わって、機内にも東の方向より朝日が差し込む。照明も灯され、多くの人がトイレに行きだす。もうすぐ日本の領空だ。現実に引き戻される心を「死に花」が満たしてくれていた。当分「偶然の出会い」はないのか、とさびしい気持ちを埋めて。


つけたし
 娯楽映画として非常によくできた作品だと思います。肩肘はらないところがいいですね。一部エロじいさん・穴池好男(青島幸男 役名はぎりぎりじゃないか 汗)のきわどい発言もありますが、子供も含めて家族で楽しんで鑑賞できる秀作。
 あと私は敢えて「痴呆」と書きました。また一つわからないのは「痴呆症」の症状を「痴呆」と呼んでいたのですが、「認知症」の症状は何というのでしょうか。「認知障害」だと違う意味になりますし・・・

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2004年 11月 17日

チャン・イーモウ『HERO 英雄」2002

投稿者 by tak@taknews.net at 10:26 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 1 トラックバック

英雄 ~HERO~ スペシャルエディション
英雄 ~HERO~ スペシャルエディション

 時は紀元前200年。戦乱の中国を平定しつつあった秦王(チェン・ダオミン)は、その命を常に刺客に狙われていた。そのため秦王は己から百歩以内に誰も近づけないようにしていた。しかし手柄話をすると10歩、20歩と特別に近づくことが許される。そこで秦王の命を狙う最強の三刺客を倒してきた その名も無名(ジェット・リー)という田舎の官使は、秦王まで十歩の位置まで近づくことが許される。
 しかし実際には、無名は三刺客と計っていた。「十歩一殺」という十歩以内の敵を絶対にしとめる技を見につけた無名は、最強の刺客たちをみね討ちし手柄話を捏造してきたのだ。秦王がそれに気づいた時は、すでに無名は十歩の位置に。しかし無名は気づく。本来の目的は私恨を晴らすためではないのだと。天下泰平の世の中を作るためなのだ。そのためには ここで圧倒的な武力を持つ秦王を殺してしまえば、中国全土をさらにカオス化させてしまう。我が理想を実現すべく、己を犠牲にすることを決めた無名の意思を汲み取り、秦王は後に始皇帝となる。
 この映画の賛否が割れる大きな理由は、つまるところ中国の現政権の正統性を担保しているという点だ。物語は天上より降り注ぐモチベーションを与える。それは理屈を超越し強く、強く降臨する。今回の話では無名や三刺客の一人、残剣(トニー・レオン)が啓いた剣術の境地、剣なくして世を平定すること、を全うするために自らの敵を生かし、己は死を選んだ「英雄」により、理屈を超えた強い動機付けが降臨する。今から二千年以上前にいた ただの名もなき男(無名)の魂が現世にまでパワーを授け続けている。
 しかし ただでさえ強い権力を持っている側が、降り注ぐ目に見えない力までも吸収しつくしてしまうことを、無名は望んでいたのだろうか。秦王は無名の「信託」を裏切らなかった。力を利用する以上、現政権には無名の信託を全うする責務があるのは間違いない。

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2004年 11月 11日

チアン・ウェン『鬼が来た!』2000

投稿者 by tak@taknews.net at 10:57 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 1 トラックバック

鬼が来た!
鬼が来た!

 高らかと鳴り響く軍艦マーチと共に始めるこの映画は、その冒頭の調子はずれの「軍人ラッパ」とでもいうべき音から、すでに何か嫌な予感を感じさせた。それは日本人が中国における戦争映画を見ていれば必ず感じうる「気まずさ」を強く増幅させた。簡単に言うなら「これは日本軍の殺戮の場面がくるな」という、口が渇く感覚だ。
 ストーリーはこうだ。謎の男(=共産党軍)が麻袋に入った日本軍人・花屋と中国人通訳を突如、一村民であるマーに強制的に預けにくる。後に引き取りに来ると脅されていたので殺すこともできず、だかと言って隠さなければ村にいる日本軍にばれてしまう。「生かさず殺さず」二人を隠す村民たちのドタバタ劇をユーモラスに描く前半部。後半への橋渡しとして、花屋との融和から逆説的に におい出す殺戮。そして村民と村の日本海軍部隊、そして花屋所属の日本陸軍部隊との間で「融和」が完全に膨張しきったところで突如爆発を起こす殲滅。最後はマーの狂乱・復讐。そして最終的には国民党軍の将校の命により花屋によって打ち首にされるマー。その皮肉な惨劇にも関わらず首は見事回転し口元は上がり、確実に天上へ召されるマー。
 映像について少し触れると 最後の首が落ちて以降を除けば前編が白黒映像である。白黒映像が「戦争らしさ」を醸し出すだけでなく、光と影の強烈なコントラストが各シーンを十分に織り成す。そして首が落ちて初めて「色のある世界」が訪れる。死して「初めて」色彩に満ちた「生きた」世界が広がる。
 なお映画には描かれていないが、その後 国民党は台湾に追いやられ、共産党=「マーたちに不幸の種を蒔いた張本人」が政権につき今日に至る。それは権力者の「循環」とでも言うべき虚しさ、常に弱者であり続ける一般人たちの弱さを表している。しかしラストシーンでマーが見せた成仏した顔は何を意味しているのか。ただ権力者の絶対性を訴えただけではないことがあの「死に様」から明らかであった。仮の宿りを十分に生き抜いたマーの顔を、私はそこに見た。

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2004年 10月 31日

マイケル・ウィンターボトム『ウェルカム・トゥ・サラエボ』1997

投稿者 by tak@taknews.net at 14:25 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック

ウェルカム・トゥ・サラエボ (97英/米)監督:マイケル・ウィンターボトム
ウェルカム・トゥ・サラエボ (97英/米)監督:マイケル・ウィンターボトム

 始めに言っておこう。戦火激しい殺戮の街・サラエボから「人道的見地」にたって一人の少女を救う お涙頂戴の話を期待しているなら、絶対的に見ないことをお奨めする。この話はそんな「生易しい」話ではない。もっと根源的な議論を誘発しうるものなのだ。
 イギリスのテレビ記者の実話を元に作られたこの作品は、サラエボに取材で来ていた記者が一人の少女を養子として引き取り、イギリスに連れ帰るストーリーだ。先にも書いたが、そのうわべだけを聞けば人道主義的見地からの救出に思える。しかし実際にはそうではない。全編から主人公の人道主義的言動は一切見つけられない。彼は戦火にさらされるサラエボで「違う世界」を垣間見た「体験」が 己を駆り立てただけなのだ。いや、人間とは本来、違う世界に駆り立てられるものなのだ。人道的見地のみにたつと必ず「臨界点」が存在する。その臨界点を超えるものは、異者として接するものたちなのだ。ここでは敢えて詳しく書かないが、主人公の目に飛び込んでくる「異なる世界」を全編を通して十分に映像化することに成功している傑作だ。またそういう意味では見る側に非常に高い「リテラシー」を求めている作品である。
 余談だが明らかに意図的に「外した」バックグラウンドミュージックの選曲も面白い。例えば猥雑な話をしているときに、売春婦でも処女でもなく真の友を待っているんだ、と歌っているローリング・ストーンズの「Waiting On A Friend」を選んだり。その外し方も不意に降り立つ世界による違和感→異者を表現しているように思えるのは深読みだろうか。また随所にちりばめられた実際のサラエボの悲劇的映像も不意に世界を提示していた。
 万人受けする映画を作るのであればいくらでも手を加えられる。惨劇の中で命からがら子供たちの命を助ける崇高な記者を描けばいい。サラエボの悲劇の激甚さを知る者にとっては非常に「生ぬるい」話にも思えよう。しかし人道的「ホット」さが突き当たる障壁を誰も議論してこなかったではないか。謎の少年司祭に目を奪われる瞬間の「革命」が、観衆に押し寄せる。

本当は某所に投稿するために書いたのだがあまりにも暴走しすぎたから そっち用にマイルドにしなきゃw

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2004年 10月 29日

四ノ宮浩『忘れられた子供たち スカベンジャー』1995

投稿者 by tak@taknews.net at 11:44 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 5 コメント / 0 トラックバック

忘れられた子供たち スカベンジャー
忘れられた子供たち スカベンジャー


 ゴミを拾って生きている。しかも住まいは彼らの「仕事場」であるゴミ山だ。そう聞くと、ほとんどの人が非常に貧しい物乞い生活を思い浮かべるだろう。しかし、このドキュメンタリーに描かれているフィリピンのゴミ拾いたちは一概にそうだとはいえない。ゴミ捨て場に住む彼らはなんとフィリピン人の平均収入を越える金銭をゴミ拾いのみで稼いでいるのだ。失業率が五割を越えている首都マニラではゴミ拾いは立派な職なのだ。
 ストーリーは子供のゴミ拾いたちを中心とし、彼らの生活を粛々と描いている。ゴミの取り合いで殺人事件が起こったり、幼児の突然死が多いなどのスラム街によくある悲劇も確かにある。しかし、その中でも彼らは週末の映画や夜のディスコ、そして恋愛を楽しみつつ澄んだ瞳で日々の生活を何とか暮らしている。蝿が多くても、臭いがきつくても、ゴミと一緒に死体がでてきても、それでも今をなんとか「そこそこ」楽しみ生きる術を見いだしていく子供たち。
 しかしその一方、親たちは子供に教育を受けさせようと必死である。自分の子供に教育を受けさせて街の「マクドナルド」で働かせるのが、せめてもの実現可能たらしめる夢なのだ。「末は博士か大臣か」などという大風呂敷ではない。それどころかJPモルガンでもアクセンチュアでもない、マクドナルドが最終目標の「外資系企業」なのだ。いや、本当は親だけではない。皆、煙がたなびくゴミ山から脱出したいのだ。ゴミの山なぞで暮らしたくはないのだ。しかし一歩外に出れば失業者のあふれる街、マニラ。平均収入を昼過ぎまでには稼げてしまうゴミ山に一度入ってしまえば、もうでられない。なまぬるく「生かす」システムが稼働している。爆発的エネルギーの発散もなく、破滅へと向かう恐怖と隣り合わせの「豊か」なスカベンジャーの生活を感じる一本だ。

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2004年 10月 15日

ジョン・リー・ハンコック『オールド・ルーキー』2002

投稿者 by tak@taknews.net at 11:24 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック

オールド・ルーキー
オールド・ルーキー

 「あなたは野球が好きですか?」昨今の野球界の大激震の最中にすべての球団オーナーはこの疑問を有象無象に突きつけられた。その返答に迷わず"YES"といえたオーナーは果たして何人いるのだろうか?
 先にあげた疑問はこう言い換えてもいいかもしれない。「あなたは『オールド・ルーキー』が好きですか?」と。野球が好きな人はちょっと評論家ぶって「今日の松坂はシュート回転してるな」「松井はヘッドが下がってるな」とか技術論を語るときもあるが究極的には空き地や公園(以外に球技がだめなところが多かった記憶があるが)などで野球をした原風景やテレビや球場で見たプロの世界というベーシックであり大人になれば気恥ずかしいようなちょっと「小便くさい」ところで野球と繋がっているのだ。そういうコネクションを持っている人は是非とも見て頂きたい映画。
 ストーリーは手短に説明すると地元の学校の弱小野球部の監督をしているジムはチームが優勝すれば自分は入団テストを受けると約束。チームが優勝しジムは子供三人を連れて入団テストを受けたら豪速球を披露し見事合格。家族の生活と夢、どちらかを選ぶことになったのだが苦悶の末に大リーガーになる夢を追うことにする。
 本当に「くさい」話だ。実話であるとはいえ「がんばれば云々」というあまりにもくさい話だ。それは百も承知であるのだが私はひきつけられてしまった。それはいくら頭でっかちに考えてもひっくり返すことができない原風景との一致なのだろう。その原風景はよって立つべき重要なものなのではないのだろうか。原風景右翼とでもいおうか。私は野球原風景右翼だ。
 
 ちなみにライブドア(と一応楽天もいれといてやるか)にも期待したいのだが彼らに空き地でボールを追ったり人の家にボール入れちゃってびびったりしたあの原風景があるのかは少し疑問があったりする。まあ宮内、堤、ナベツナとかには確実にないことはわかってるのだが。ガキのころの日本シリーズ期の「高揚感」を味わったことがあるものにとっては一リーグなんて口が裂けても言えない。

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2004年 10月 05日

土屋豊『新しい神様』1999

投稿者 by tak@taknews.net at 22:12 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 4 コメント / 0 トラックバック

新しい神様
新しい神様
天皇ごっこ
天皇ごっこ

新しい神様
(最近映画批評のブログとなりつつあるような気もするが。。。なお6日より9日まで坐骨神経痛の治療という大義名分のものと温泉いってきますので更新は多分できません。)

 雨宮処凜さんを中心とし彼女の同士・伊藤秀人さんとこの作品の監督土屋豊さんの三人によるドキュメンタリー。土屋は雨宮にビデオカメラを貸し自分で撮らせることにする。カメラに向かって語る雨宮を通して彼女の揺れ動き―それは成長といってもいいだろう―をを前編から感じられる。それによりはじめは違和感のあった彼女の言動だが徐々にその謎がほぐれ彼女の真意が見えてくる。そして彼女の提示する問題は彼女自身の問題に矮小化されるようなものではなく天皇制そのものの問題に見えてくる。
 では具体的に見ていこう。雨宮は一応右翼となっているが彼女は結局天皇は一つのネタに過ぎないことに自分で気づいている。一つのよって立つ象徴として天皇を「利用」しているに過ぎないことに間違いなく気づいている。それは彼女の右翼も左翼も軽蔑してしまうという発言などから伺える。
 見澤知廉が「天皇ごっこ」で右翼も左翼も「天皇ごっこ」を書き記したがその「天皇ごっこ」に雨宮は気づいている。そして彼女が時に軽蔑する右翼も左翼、そして自分も結局弱いやつらでよって立つものを探しているだけなのだと。しかし彼女はそれに気づき天皇機関説をとっている(と考えていいと思う)。しかし巷の右より論壇の多くは国家などのよってたつ大きなものを自らだと勘違いしている。いってもるならちんぽ=己に真珠=よって立つ大きな幻想を入れて「俺はすごい。ひぃひぃいわせられるぜ!」といてるようなもの。そこに気づいているかどうかが天皇制の本質なのではなかろうか。イチローすごい、日本の誇りといってるやつらはいぼつきコンドームってとこ。(すごいのは日本人じゃなくてイチロー!)
 一方、同士伊藤も民族というものが偽りのものであるということに気づいていながら民族へのこだわりがある。それは雨宮同様、利用する機関としての民族という性質を少なからず包含しているが、雨宮よりは(失礼な言い方だが)わかっていないように思えた。
 なおワールドカップを前に天皇陛下が「百済発言」(最後に引用あり)をされた後の伊藤氏の反応も見てみたく思った。自称右翼(雨宮から見ればくそだろう)が如何に陛下の御心を踏みにじってきたかがわかる発言だが。
 余談だが特典映像として映画公開時のトークショーが各ゲストごとに断片的に入れられていた。宮台真司先生がどんなことを話したかは大体想像がつくが見沢知廉氏と鈴木邦男氏は是非ともカットなしで見たいところであった。特に二氏は宮台氏とは違い核心ではないトークが採用されていたので。


2001年12月23日 天皇誕生日の天皇陛下の会見発言一部

 私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士に精通し教授した学者。日本書紀に、継体・欽明朝に百済より来日したという記録がある)が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王(は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

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Errol Morris『THE FOG OF WAR〜フォッグ・オブ・ウォー〜』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 00:53 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック

Fog of War / (Ws Sub Dol)
Fog of War / (Ws Sub Dol)

 東京近郊では六本木ヴァージンでしかやっていないので六本木行く用事がある日にみた。人は少ないのだろうな、と思っていたら予想通り3割は切っていた。華氏911と違い上映劇場が非常に少ないにいも関わらずこの入りは少々さびしい。
 まず評価からだがこの作品は見るべき。日本人のほとんど全員がマクナマラを知らない(だろう)という大きなネックがあるが何とか一人でも多くの人に見てもらいたいものだ。内容は第一次世界大戦終戦だったときのおぼろげの記憶からベトナム戦争まで(時間軸は前後します)を回顧しながらのインタヴュー。インタヴューとはいえほとんどマクナマラの語りでインタヴュアーはさほど口を挟まない。よってマクナマラの独白に近い。
 もっとも心に残ったのは対日戦の空爆を遂行するにあたり彼が大学で学んできた統計学の観点から爆弾ではなく焼夷弾を少々の危険を冒して低空飛行で確実にばら撒くことにより焦土化させる作戦を提案したということを告白するシーンだ。彼はあくまで指揮系統にいたわけではないので最終的な判断を下したわけではない。しかし彼は明確に謝っていないとはいえ実際に日本の多くの都市を焦土としたことに対して深い後悔の念を抱いているのが強く感じられた。
 ケネディの死後、アーリントンに墓を探しに行ったときのエピソードのシーンなどからはケネディに対する想いがあふれていた。彼はケネディだったからこそフォードの社長をやめてまで入閣したのだろう。しかし彼の死後も国防長官を続けたマクナマラはあくまで自分の仕事は大統領の意向を粛々と遂行することだと思い、自らの意思を(ある程度)隠しベトナム戦争で「悪役」となっていたことがわかる。あと十年もすればパウエルも同じようなこと言うかも。。。
 なお戦争に直接は関係ないので世銀の話は皆無。個人的には国防長官としてより世銀総裁としてのマクナマラの少しばかり知識があるので世銀の話も聞きたかった。彼の世銀での経験も私たちにとって大きな財産となりうる。何かしらの形で記録にして欲しい。
 
 マクナマラは単純に与えられた任務を完璧に全うする男だったのだろう。だからといってすべての責任を逃れられるものではない。そのことに悩まされ続けたマクナマラは自分に残された時間はそう長くないことを感じつつ自らの生涯を記録として残すことを選択し、苦しい胸のうちを吐露したのであろう。その葛藤の記録が次世代に受け入れられればと思う。

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2004年 10月 03日

マイケル・ムーア『華氏911』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 19:18 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック

Fahrenheit 9/11 / (Ws Ac3 Dol)
Fahrenheit 9/11 / (Ws Ac3 Dol)

 実は結構前にみている。はじめの一週間は恵比寿のみであったがそのときに恵比寿まで行ってみた。かなりの人でむこう二回のチケットはすでに完売。仕方ないのでその日の最終回のチケットを購入。iPodとシグマリオンで3時間あまり過ごす。会場に行くと整理券順の入場。3時間以上前に購入したのに整理券番号はあとの方だったので座席は後ろのほうぽつぽつと最前列のみしか空いていなかった。「すいません」といいつつ人をまたいで奥の方に入るのは面倒なので最前列のど真ん中に陣取る。客層は外国人の方の比率が高かった。(まあこれは十分予想していたことであるが。)特に男性が外国人で女性が日本人のカップルが多かった。勝手な想像だが男が「いこうぜ」とあまり興味のない女性を連れてきたのだろう。他に気になった点は想像以上に若い女性が多かった。あまりこの問題に興味を持っていなさそうな層の人がかなりいた。失礼な言い方だが話題作だからなんとなくきたのだろう。事実終わった後の会話に聞き耳を立てているとちょっとした死体の映像にかなりの嫌悪感を抱いていたりでそういう「センセーショナル」的な反応をしていた。極めつけは「結局何の話かわからない」という声も。そういう方は踊る大走査線でもみにいってちょ。
 
 さて肝心の内容に移ろう。内容は半分は現政権を茶化している。ウォル公が櫛を嘗め回して整髪している姿なんてちょっと茶化しすぎ。いや茶化して「へっへ〜いやらしいおっさんだな」と笑うのだったらいい。それがベタで「こんな気持ち悪いヤツがネオコン云々」と怒るような内容なのはよくない。ベタで茶化すことにのる国民は結局911みたいにちょっと後ろから小突かれただけで「アメリカ〜!」と叫ぶやつと同じ。どちらもそのときの空気を察知するというよりは流されてride on the bandwagonする連中。911のときはブッシュに吹いた風に乗っていたのに今となっては反対の風が吹いてきたのでのっただけ。もちろんそのような「バカ」を動かす装置としての逆バネの動きのダイナミズムさもアメリカの魅力なのであろうが。やはりもっと深い洞察が欲しかった。具体的にいうなら華氏911をみてブッシュに対して怒る国民も戦争を起こす原因を持っていることみたいな。ただ単純に華氏911に描かれていることを知らない人も数多くいるのでそういう意味では評価は高い。けど私としてはいちおーチェックはしといて後で批評しよう、レベル。まあ問題をキャストしたという実績を踏まえ甘めにしてnot badにしておきましょう。

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2004年 9月 11日

みうらじゅん『みうらじゅんの勝手にJAPAN TOUR2003 −TOUR FINAL Special Version−』2003

投稿者 by tak@taknews.net at 11:29 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック
みうらじゅんの勝手にJAPAN TOUR2003 -TOUR FINAL Special Version-

はじめに断っておくと間違いなくこの作品は映画ではない。 はっきり言えばお笑いである。
しかしこれは面白い。マイブームの創始者、みうらじゅんは日常の中に潜むおかしさを発見する名人だ。もっとかっこよくいうなら私たちの生きる社会の中にふと存在する異種的な世界を見つける名人だ。
この感覚は非常に大事でこれは一つの超越であろう。無が有るとおいう仏教感を披露されるがそれも超越的だ。くすくすと笑って他者の己への侵入を楽しみましょう。

要はバカ話なのですがw あ〜やっぱりみうらじゅん最高だわ。いとうせいこうとのスライドシューまたやってくれないかな。

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2004年 8月 28日

マイケル・ムーア『ロジャー&ミー 特別版』1989

投稿者 by tak@taknews.net at 23:02 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック
ロジャー&ミー


いま最もその動向が注目されている映画監督(!?)のマイケル・ムーアの初期作。
私が見た彼の作品(これと「ボウリングフォーコロンバイン」「THE BIG ONE」「華氏911」)の中では一番気に入っている。

彼の出身地フリントはGMの工場があり、まさにそれで成り立っている街であった。ところが経費削減のため海外に拠点を移し多くの労働者が一気にレイオフされる。そして毎日毎日家を追い出されていく。追い出す方も元はGMの労働者で運良く職に就けたものだった。そのような現状に直面したムーアは何とかGM会長のロジャーに会おうと試みる。

この作品は全編でムーアが前面に出て活動しまさにムーアのドキュメンタリーとなっている。その点は華氏911とは大違いで非常にいい。感じることでで見えなくなることもあろうがドキュメンタリーの醍醐味は己で感じることであろう。また笑いの要素もそれ相応に入っているのもグッド。ユーモアは「論理」を軽く受け流す力を持ちうる。

GMの方針は当然手放しで喜べたものではないが一つの街が一つの会社に完全に頼っている構造も問題である。水俣も四日市も街が特定の企業、特定の産業のみに過度に依存していた面が問題の傷口をあそこまで広げてしまった原因の一つといえよう。ちなみにいまでもフリントは実質の失業率は推定で5割ほどだそうだ。その解決をGMにばかり言っていても正直厳しい。新しいアーキテクチャーをどう作っていくかまで言及できていれば素晴らしかったっがそれはまあ文で書かなきゃ無理な注文というところか・・・

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2004年 8月 25日

リドリー・スコット『ブラックホーク ダウン』2001

投稿者 by tak@taknews.net at 14:04 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック

1993年の米軍のソマリア出兵で起きた実話に基づいた作品。米兵の死体を市民がひっぱり「市中引き回し」をする映像を見たことある人も多いだろう。

まずはじめに言うとこれは米軍中心の見方でソマリアの人々を敵に見立て彼らからの視点が欠如している、という感想を持つ人が多いようだがそれは違うだろう。特に大儀のないイラク攻撃をやる米国を見ている現状ではそう感じるかもしれない。ではソマリア出兵には大儀があったかというと「大儀」はあった。人道支援という大儀が。「人道支援」の大儀のもと降り立った若き兵士たちはものの見事に現地の人々のレジスタンスにあう。助けに来たはずがいきなり敵だ。その一方ソマリア出兵はソマリアの地に直結する「目的」はなかった。それにより「大儀」の信憑性が兵士の中では高く共有されていたはずだ。その本気で信じていた「人道支援」の目的がものの見事にぶっ潰されブラックホークは次々とRPGの餌食となり市街で四面楚歌となる。その中で兵士たちが感じたものは大いなる絶望であろう。アメリカ的な「英雄」気取りだったはずが来てみたら敵だ。理由を考える間もなくモガデシュの街に放り出される。ディスオーダーを引き起こし完全にもぬけの殻となってしまいかねない兵士たちの士気を何とか保ったのが戦友のボディー回収だったのだろ。死体は回収したところで命が助かるわけではない。しかしそれしか戦う理由がなったはずだ。その大きな絶望をDVDのパッケージからも感じられる。

今回のイラク攻撃でもカルバラでブラックホークが撃墜されたときにソマリアをフラッシュバックした米国人は少なくないだろう。私はブラックホークが撃墜されソマリアが人々の心に思い出された瞬間にイラク攻撃が「負け戦」のレッテルを貼られたと感じた。

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2004年 7月 25日

ダイ・シージエ『小さな中国のお針子』2002

投稿者 by tak@taknews.net at 01:56 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック
小さな中国のお針子

今回は小さな中国のお針子

先日感想を書いたラストエンペラーは文革までの話であるがこれは文革からの話である。内容は文革期に「再教育」のために片田舎の村に教育を受けにこさせられた二人の知識人階級の青年とその村に仕立屋として来る「小さなお針子」の三人の間での微妙な恋愛関係を中心に描いている。

二人の青年の別々な愛の形。バルザックの小説により「自由」に目覚める少女。話自体は「まあ、よくありそうな感じかな」と思うものだが三人の純朴な切ない日々の描き方は非常に良かった。川でのセックスのシーンも全然いやらしさがなかった。
愛ゆえにお針子に変革をもたらしたからこそお針子を旅立たせる理由になったのは切ない。

ラストは大人になった青年の一人(マー)が小さなお針子に逢いにダムに沈むことが決まったあの村に行く。空港のDFSでYSLのベビードール(香水 嫌味のないフルーティーな香り)を購入して、いないことなんてわかっているお針子に逢いに行く。
そしてダムの中に「再教育」の村=文革時の象徴的村が飲み込まれていく。それは新たな時代の幕開けの象徴であるダムに旧来の象徴が食われていく瞬間だった。しかしお針子と二人の青年の淡い想い出はミシンの上のベビードールと共に永遠に甘く切ない香りは静かに放ち続ける。

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2004年 7月 21日

ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』1987

投稿者 by tak@taknews.net at 11:40 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 1 トラックバック
ラストエンペラー

清の末代皇帝・愛新覚羅溥儀の波乱の一生を描いた作品。実際の紫禁城を撮影の舞台として使用し荘厳かつ色彩豊かに撮られている。3歳で皇帝に即位しながら6歳で辛亥革命により失脚。しかしその後も紫禁城での生活を許され、塀の中で外のことには気づかずに「皇帝」として生活をする・・・・

音楽は説明不要の坂本教授。紫禁城をバックに流れるどこかもの悲しい彼の音楽が荘厳さを高める。音楽だけかと思いきや甘粕役を良くみるとなんと坂本龍一ではないか。教授が甘粕役をしていたという予備知識を持っていなかった自分を恥じつつ、自分の中で甘粕氏の評価を再考する。彼の評価は非常に難しく感じる。やはり彼には彼なりの理想があった。君側の奸であったとは言い切れない。しかし、だからといって肯定されるべき存在であるかと言えばそうは考えない。しかし、そもそも日本国民の何割くらいが甘粕の名を知っているだろうか?満州がらみで頭に浮かぶ単語は「満州事変」「リットン調査団」「満鉄」「引き揚げ」くらいではなかろうか。

残念だった点はなんと言っても会話が英語である点だ。やはりぶち壊し感は否めない。また後半がかなり「まき」であった点も非常に残念だ。満州国建国後、溥儀が引っぱり出されるあたりからの駆け足度は半端ではない。もちろん作品の長さを考えればノーカット版でない限りどこかしらを削る必要があろう。しかし溥儀は清のラストエンペラーであっただけでは決して波乱の人生とはいえまい。盛者必衰の世の中、皇帝が革命により失脚することはままある。否、そもそも勃興した勢力の数だけ失脚は存在するのだ。その中で溥儀は一度は(気づかないうちに)失脚しながら政治的側面が強い人造国家の元首(後に皇帝)として担ぎ上げれ、さらには日本敗戦後ソビエト軍に捕まり、中国に移され、特赦され一般人となり、文革という新たな時代を感じながら死んでいくという波乱万丈のストーリーがあるからこそ面白いのだ。その点に鑑みるとやはり後半も前半と同様に力点を置いて欲しかった。

最後は観光客相手のガイドが鳴らす電子音が紫禁城内をかき乱す。それは永遠の象徴であった頭をたれるクリケットの姿とは相容れない感触を残し、エンドロールとなった。

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2004年 7月 15日

北野武『Dolls(ドールズ)』2002

投稿者 by tak@taknews.net at 01:52 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック
Dolls [ドールズ]

今回は北野武のDolls
それぞれ違った恋愛話を3話同時進行的に進める形をとっている。(はじめはそれに気づかず一瞬戸惑どったが。)核になる話は男(松本)とその本来の婚約者(佐和子)が乞食となり共にする話だ。自殺の後遺症で脳に障害をおい記憶も失った(と考えられる)佐和子は松本と結婚することを皆の前で公表した場所で(断片的であろうが)記憶を取り戻す。そのとき佐和子は松本から婚約指輪の変わりに貰ったネックレスを握り締め、唇を噛み締める。そのいじらしい顔に何ともいえない悲しみにも似た溶解を感じる。しかしその直後にその幸せなときは二人の死を持って終焉する。
残り2つの話も幸せの末に死が待っている。

どれも悲しい話のように思えるが私にはどの話でも死んだ人は皆、死すべくして死んでいったように思う。皆、現実世界での実現不可能性に気づきながらその中で身を削り一瞬の光悦の末に実存しない世界での成就を信じて死んでいったのだ。それは生半可なハッピーエンドでもなく「結果より過程だ」という学校の先生くさい言説でもない。それは実存的な問題だ。

佐和子の「悲しい溶解」は現世での実現可能領域の最高点に達した現状であとは死んで成就することへの覚悟のように思えてならない。あの菅野美穂の顔が目に焼きつく。

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2004年 7月 08日

エドワード・ズウィック『ラストサムライ』2003

投稿者 by tak@taknews.net at 14:38 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 0 コメント / 0 トラックバック
ラスト サムライ 特別版 〈2枚組〉
ラスト サムライ 特別版 〈2枚組〉

今回はラストサムライです。
やはりこの話で考えてしまうのヘリテージについてだ。渡辺ふんする勝元は尊皇攘夷を唱えていた(と考えられる)にもかかわらず最後は皇軍と戦うことになった。彼はなぜ崇める天皇の軍と戦うことになったのだろうか。それは真に天皇を君主とした立憲君主制の近代国家をつくり欧米列強と伍する国家を形成しつつもその列強各国の中に埋もれることなく日本独自のものを受け継いでいこうという意思があったからだ。

ラストサムライではガトリングガンと共に受け継がれるべき魂は完全に消し去られるのかと思われたが皇軍側の勝元への敬意や明治天皇が御心を受け継ぐ決心をなされることにより今一度ジャパニーズヘリテージを感じ守っていかなければいけないと結論付ける。

はっきり言ってこの話は時代考証的には相当間違いがある。しかし私はその点についてさして重要には思わない。
それはどうでもいい。近代化のプロセスの中でで魂なる本懐を捨ててきたことやレジュ―ムチェンジの過程で生じた権益にすがる「改革者」(このフィルムでは大村 実在では一応大久保を意識か?)がでてくること、そしてそれにあがない真に愛国「民」(日本では愛国という言葉が通じないので敢えて愛国民)であるがために自らは他山の石となりて謀反を翻した男の話がわかればいいのである。

権益にすがる「改革者」・・・どっかの国にもわんさかいる。
そんなやつらがタカ派の右翼面して愛国を語っているとはちゃんちゃらおかしい。

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2004年 5月 07日

メル・ギブソン『パッション THE PASSION OF THE CHRIST』2004

投稿者 by tak@taknews.net at 22:25 / カテゴリ: 07キマネ旬報(映画評論) / 1 コメント / 0 トラックバック

パッション
パッション

メルギブソンの最新作THE PASSION OF THE CHRISTを見てきました。

キリスト教徒ではありませんが(一応は)一般的日本人よりキリスト教に対する理解あるものとしてみないわけにはいかない、という気持ちでした。

全編見終わって感じたことはキリスト文化圏には確実にヘリテージが残っているというある種、羨望にも近い思いです。
よくアメリカは歴史が浅い国だと言われますがこれをみればそんな北アメリカ大陸の歴史だけで話はすまないことを痛感しました。
彼らの中には最後に寄るべきものが存在しているのです。
一人の男がsinを被って磔になったというテキスト的な事実以上の代替不可能かつ受け継がなければ途絶えるものが間違いなく存在しています。
本当に羨ましい。

鑑賞前にいくつか日本のblogにおいての感想をみました。
結構な数のものが「痛そう」なんて議論で終わるようなものが多かったのですがそんな感想で終わるのでしたら正直この映画を見てもなんら意味がないと思います。
はっきり言えばそんなやつは見る資格なし!といってもいいです。
また事実との整合性やメルギブのいいとこどりだ、という点はもちろん議論して興味深い点ですしそれ自体を批判する気は毛頭ありませんがそれは私が思うにファーストプライオリティーではないと思います。
最も重要な点はバックグランドを流れる大きなものがキリスト教圏の人々にはあるということです。
恐怖のリアリティー見たいなレベルでは別に何でもよかったわけです。
しかし現実にはメルギブはキリストに拘りました。
何故キリストなのか、そしてそれを対象とした映画がここまで社会問題になっているのかをその輪に入れなくともその理由を理解できない日本人はつまるところやはり三島由紀夫が言ったようにヘリテージがないと言わざる終えないでしょう。
縄文時代からの歴史があると言ってもそれはなきに等しいです。
そのような国民にパブリックグッズと言ってもなんのこっちゃかわからないのも仕方ないですね。
その延長にパブリックセクターとグローバル化の一方を担う「市民」の概念が生まれてこない現状もみえてくる気がします。
はぁ〜〜・・・・

う〜ん最後は日本への愚痴になってしまいました。。。
けど私は真の愛国者だからこそ憂いていると思うのですが。。。
兎にも角にもキリスト教徒に流れるカモンセンスを感じそこから脈々と流れるヘリテージを感じ羨ましく思いかつ、「南京虐殺は嘘だ!」「軍隊作れ」と言えば右翼となるお気楽などっかの国を憂うにはうってつけの映画です。

今後もたま〜に映画の感想を書くかと思いますが私は映画を見る量は決して多くないので技術論や同類の映画と比較はすることなどの多くの映画評論で出てくる論点を議論する資格も能力も持っておりません。
基本的に一話の中で「評論家」がなかなか語れないような社会性などになるべく言及できればと思っております。

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