2006年 1月 18日

一年振り返って日本社会に対して雑感 その2

投稿者 by tak@taknews.net at 23:57 / カテゴリ: 02日本社会 / 875 コメント / 0 トラックバック

 次は経済について。経済も回復してきたというが果たしてそうだろうか。結果はダウンサイズとレイオフの効果や国外でのパイが増えていることなど企業「努力」によってでてきた面が大きい。それにこの「努力」は大企業には有利に働いているが、中小企業にはむしろ圧迫となっている面が大きい。下を圧縮して上が助かるという構造がより顕著になっただけではないだろうか。ダウンサイズと海外、これがおもな理由である以上、必ずしも皆の懐が潤っているわけではないだろう。特に格差はひどくなる一方。しかしその一方で今後格差にさいなまれるであろう人たちの多くは意外にだまされ続けていることに驚く。う〜ん、これについては単純に攻めたくはないのだが、正直思考停止も甚だしいと言わざる終えない。

 メディアは相変わらずの一年だった。NHKや朝日が槍玉に挙げられたけど、まあどこもかわらんですよ。二社は身から出た錆とはいえ、攻めやすい対象になっただけで他のメディアがそうでないかといえば、そんなことはない。みんなくそ。似たり寄ったり。
 NHKは圧力があるもないも事実上全面的に政府が予算決定権を握っている現状で政府筋の連中の発言はただの意見以上に捉えるのは当たり前。楯突けば予算がつかないのは自明で圧力があるないは議論の余地なし。ここで必ず自称社会を巣食う左翼を倒す連中=いぼ付コンドームが突っ込めるネタだったからこうなったが、果たして逆の介入(つまり昭和天皇有罪にしろという圧力)があったのならどうなっただろうか。さして盛り上がらなかったのではないだろうか。問題は昭和天皇の有罪か無罪かではなく、政治家がメディアに一言言っただけで動く状態がやばいわけなのに。そこまで考えないで単純に自分と相容れなければ排除しようという非論理的かつ未成熟な態度をとる連中が多すぎる。メディアにも多いし、バカ国民にも多い。

 政治は話すまでもないけど一つだけ。丸劇に石破がでたときの話をちょっと書こう。彼の話は正直「思ったより考えてるじゃないか」とかなり見直した。但し始めだけ。しかし神保さんが肝心のグランドデザインの話を振ると「アメリカの信頼に足るパートナーとしての日本」と。これは宮台さん言っていたようにタクティクスとしてはありうるわけだ。今の世界情勢全体に鑑みれば対米追従が正しいという選択は全く問題がない。しかし、グランドデザインの話をしているときにこの回答では零点以下。ストラテジーがない。全くない。別に対米追従であろうがアジア重視であろうが、そんなことは関係ない。いかなるときでもストラテジーがない馬鹿政治家なわけだ。ストラテジーなき者たちがアーキテクチャー構築側にいると言うことはもはや笑い話だ。
 しつこいけど年を押しておくと対米追従だから問題なのではない。ストラテジーなきタクティクスの(自動)選択が情けないのだ。こういうのを頭悪いと言うんです。学校の勉強はできてもストラテジーからタクティクスを選別できないやつはアーキテクチャーを構築するな。そもそも勝手に対米追従でも米国が「日本いらね」と言ったら終わりだ。米国の政権交代ではい、さようならの可能性だって十分にあるわけだ。
 また石破が民主主義のシステムにしても信頼に足ると言っていたが、信頼に足らない前近代国家だから重視しなくていいわけがない。国のシステム云々に限らず利害関係がある国とは嫌でも関わらなければいけないのだ。中国人嫌いだから付き合わないなんて外交レベルではくず選択肢だ。嫌いだから付き合わないというなら幼稚園からやり直してこい。嫌いでも利害関係が一致するなら付き合うんだよ。それにそもそも日本自体が前近代国家じゃんか。

 あとどうでもいいことだが付け加えておくと、去年どっかのアンケートで中国と韓国が好きかというやつがあったが、結果は中国の方が嫌いな人が多いそうな。外交舞台を見ればどう考えても人気のなくなったポピュリズム先導者の韓国大統領の方がくずだと思うんだが。彼の焦りからくると思われる言動は小泉(ないし自民党の)成れの果てを見るような気がする。韓国は与党が変わることでポピュリズム政権になったが、日本は自民党が危機感を察知して「ぶっ壊す」の言葉にマンセーと言ってそうなったような感じがする。一方で中国政権の方は(好きか嫌いかは別にして)それ相応に考えて動いている。政治家のおつむのレベルはぼろまけです。

 こうみてくると結局どれも同じような日本人のあほ構造が見えてくる。まずグランドデザインが一切ないことだ。タクティクスはストラテジーがあって初めて立てられるものであるのに、ストラテジーがない。そのため自らがとるタクティクスを適当に選んでいるにすぎない。その適当な選択方法もはじめっからそれしかないと考える思考停止、不快なものを排除する未成熟な対応、あらゆる事象に対する二項対立的単純な思考(ていうか思考とは言えないレベル 考えたふり)。道徳を説くふりをした倫理観なき(そもそも偉そうに言ってるやつは大概自分で道徳心があると思っているが倫理観は全くないことが多い 正確には倫理観なるものを意識していない)自己中心的バカどもたちよ、あんたら死刑(コマネチ君 特にメディアにでて発言力を持っているやつはもっと考えてくれ。

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2006年 1月 07日

一年振り返って日本社会に対して雑感 その1

投稿者 by tak@taknews.net at 22:54 / カテゴリ: 02日本社会 / 281 コメント / 0 トラックバック

 一年振り返って自分自身は特に雑感も何もないが、日本はますます不安ベースの社会になってきたということを強く感じた一年だった。

 まずは幼女連れ去り殺害が二件起きた。それを機に監視カメラだのGPSだのスクールバスだのほざきだした。現実的には連れ去られて殺される子供の数は非常に少ない。だってそもそも昨年も二件でしょ。一方で前のエントリーに書いた通り親が子供を殺すのは年間約50件。前のエントリーでは厚生労働省の追跡調査を詳細にやった資料だったので2003年の下半期のものだったが、警察庁発表なら2004年のものもあった→但しPDF資料
ちなみにこれを知ったのは赤木さんとこ

 警察庁発表によると児童虐待死の数は2004年で51人、つまり2003年下半期の25人のペースは守られていることになる。これらは大きな問題として一切取り上げられない。誘拐され殺された子供の数はここ一年強では3人(小林、カルロスと未逮捕の栃木)の三人だ。一方で児童虐待で亡くなった子供の数は2003年下半期から2004年いっぱいまででコンスタントに被害は起こり76人。さあ、これでも子供をもつ親は不審者の方が危ないと言えますか。さらに言えば誘拐殺人は全件で三件だが、児童虐待は少なくともこの件数だ。なぜなら表に出てきていないものがあっても何の不思議もないからだ。あくまでぱくられた数なのだ。もしかしたらもっと多いかもしれない。また子供の対象を小学校高学年以上にすれば自殺もでてくる。自殺も親や学校が原因のことも多い。ここまで入れれば善人面した不安ベースのいぼ付コンドームにつつまれたいへなチン野郎(詳細な説明は後ほど)がよっぽど子供を殺しているのは明らかだ。

 結局この問題は二点あって
1、不安ベースで生きるヘタレ(宮台さんが使いすぎるせいで、ヘタレといえば宮台信者と間違えられるな 汗)
2、自分に刃が向いたものに対してはとことん無視

現実を直視せず、理解できない他者は始めから理解しようとしないばかりかそれらを排除することによって強いものによりすがろうという脆弱な精神。自分に刃が向いているものに対しては不快に思いちゃぶ台をひっく返すだけの非常に幼い衝動的とも言える恥ずかしき行為。こんな大人だらけの非成熟社会がいま日本でできつつあるわけだ。こんな大人に育てられる子供はどんなに不幸なことか。


ここから政治の話に。不安のポピュリズムを利用する小泉連中が「おれにまかせろ」とくるとマンセーマンセー言ってついていく。「日本」というでっかいものによってたつことで自分が強くなったようになって不安を解消するわけだ。このよってたつナショナリズムとか言われている類がいぼ付コンドームですわ。そしてバカどもはへなチンですよ。不安ベースのへなチンは自分に自身がないから、よってたつ共同体や国家といういぼ付コンドームを使って(あくまでいぼ付コンドーム おとなのおもちゃまではいけないわけよw)「どうだ」を偉ぶってるわけですよ。不安ベースでおたおたするやつが大きな者によってたつ姿は見ていてもう情けなさ過ぎる。特にいいじじいがアホなこと言っているのは目もあてられない。お前らは利用されているんだよと。真の右翼とはナショナリストではない。パトリだ。

 そう不安ベースでギャアギャア騒ぎだしたらいぼ付コンドームを出せるやつ=アーキテクチャー構築側は得するわけだ。自由自在にへなチンにいぼゴムをあげれるわけだ。それで人気取りにしていればいいわけだ。電通とか(その子会社)にそんなことやられているわけですよ、バカ国民は。拉致問題も政府は別に解決したいとか思ってないですよ。利用しているわけですよ。それを国民は直視すべきだ。思想とか右とか左とか関係なくまずはバカ国民どもは利用されている。なぜならお前がバカだから、ってことに気づかないとダメだ。

長くなってきたので以降次回

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2005年 11月 29日

変態より親が殺すのだ、子供を

投稿者 by tak@taknews.net at 22:47 / カテゴリ: 02日本社会 / 1328 コメント / 3 トラックバック

 「変質者が多い」だの「変態は危ない」だのと不安ベースに生きるバカ親の方がより自分の子供を(直接間接に)傷つけたり殺したりする可能性のほうがよっぽど高い。こんなの統計をとれば一発でわかる。今も広島の事件を日夜あきもせず報道しているが、仮にあの事件の犯人を(世間一般の言う)「変態」の犯行にしておこう。ではこの事件の一つ前に「変態」によって子供が殺された事件はなにか考えてみよう。小林某までさかのぼるのではないだろうか。あの事件は一年前だ。つまり変態が子供を殺すのは年一件かそこらだということだ。やけにメディアは騒ぐが、年一回だ。

 一方で児童虐待での死亡者数は平成15年7月から12月まで(ちょっと古いが調査後に発表した資料なので)、つまり半年だけなのだがその数は24件で25人にも及んでいる。
参考児童虐待による死亡事例の検証結果等について(「児童虐待等要保護事例の検証に関する専門委員会」第1次報告)厚生労働省
またこの手のものに対する親の反応として「どうせ連れ子とかで相手が殺したんだろ」と自分を安全地帯に置いて安住しようとする意見が出てくる。しかし表の3を見ればわかるとおり加害者は実母が50%、実父が30%と内縁や交際相手、同居人という「非難しやすい」対象が加害者であることは圧倒的に少ない。メディアは内縁や交際相手だとかなり煽っているように思える。相変わらずくそだ。もちろんそんなバカ言説にのってはいけない。変態に子供が1人殺されるうちに、親(や近親者)によって50人もの子供が殺されている。そっちの方がより大きな問題ではないのか。

 他にも子供が殺されたといえるのが自殺だ。虐待は子供の中でも小さい子が被害者となりやすいが、成長するにしたがって肉体的ダメージで死に至ることはなくなり、また折檻そのものも減少するだろう。そうなると子供たちが虐げられて死んでいく状況を知るには自殺を考えるのがいいだろう。
参考生徒指導上の諸問題の現状について(概要)2.自殺 文部科学省
上の資料を見ればわかるように小学生の自殺も年間5件前後ある。高校生にいたっては100件弱だ。これだけの子供たちが自ら命を絶っていることは大きな問題ではないのだろうか。年間一件の変態におたおたしている中で、小学生ですら年間5人自殺しているのだ。また文部科学省の資料を見ると原因は以上に「その他」が多い。その他が具体的にあるのであれば、このマルチプルチョイスは破綻している。もしそうであるならちゃんと選択肢を新しくして再調査しているだろう。そうなると自然に考えれば原因は「よくわからない」ということなのだろう。それだけ「わかっていない」ということが、すでにこの問題を軽視していることの証左に思えてならない。(自殺者から見た精神的面での)加害者たちが加害していたことに気づいていないということは、善意の行為だった可能性もある。善意の脅威ほど恐ろしいものはない。善意の脅威でなく、単純に学校も家庭も原因のなすりつけをしているだけかもしれないが。いずれにせよ少なくない子供たちが自殺しているということは間違いない。小学生ですら自殺しているのだ。その問題の大きさを考えるべきだ。

 さて長々と変態、虐待、自殺と子供が被害者になっているものを比べてきたが、圧倒的に変態に殺される可能性が低いことが見えてきた。明らかに親や学校に殺される子供のほうが圧倒的に多いのだ。しかしそれでもなおメディアは変態を異常に強調し、一般大衆のおバカはそれに意図も簡単に乗り不安を叫び続ける。そんなあんたが子供を殺す可能性のほうが高いんだよと。しかもその確率は桁違いに大きい。変態用監視カメラをつけるならリビングに監視カメラをつけた方が「効率的」だということだ。
 いくらそう言っても都市型の新保守の野郎は不安に怯えバカみたいなことをやり続けるのだろう。それにより失うものにも気づかずに。

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2005年 11月 01日

知識人のいない「時代」 必要ない「時代」 気取れる「時代」

投稿者 by tak@taknews.net at 22:33 / カテゴリ: 02日本社会 / 20 コメント / 0 トラックバック

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学


限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
 宮台氏と北田氏の「限界の思考」を読んでいて改めて「今の日本に知識人と言える人はいるのだろうか」と考えた(別にこの本のテーマと全く関係ない)。宮台氏が東大に入って小室直樹先生や廣松渉先生のゼミに通っていたことは知っていたが、今の東大生たちも「入学したらあの先生の授業もぐってやる」とか「ゼミに顔出してみっか」という人はいるのだろうか。ここで冷静に考えると、確かに東大生ではない私でも東大の授業にでてみたいと思う教授(助教授)はざっと10人くらいはあがる。やはり他の大学と比較してもダントツだ。しかし私がピックアップした人たちは知識人と言えるのかといわれると、それは疑問だ。また日本には「戦後知識人」なる言葉がある。それが意味するところは知識人とは「戦後知識人」で系譜が途絶えということではないかと思えてならない。

 ではなぜ知識人がいなくなったのか考えると理由は二つあろう。一つは知識人と呼ばれるべき人々が知識人になっていないということ。もう一方は受け手側がそのような存在を必要と思わず、知識人なるカテゴリーを排したからだ。私は後者の理由が強いと思っている。そりゃ論壇紙の発売日に開店前の本屋に行列が出来た時代と今は明らかに違う。またそういう知識人を何とか消そうと言う「努力」もしてきたのではないかと思えてならない。

 この「知識人が必要のない社会」は十分考察するに値するのだが、今の私には論述するには大きすぎる。次に残るのは知識人がいなくなっていることだ。言われてみると大学教授など「知識人」と呼ばれてもいい層が社会へのコミットメントをしている割合が昔に比べて非常に低いのではないだろうか。それは丸山真男氏の言うタコツボ化がどんどん進んでいる証左であるかもしれない。生活の上での共通前提が壊れつつある社会であるのもタコツボとは違う形で根元のなさに寄与しているのかもしれない。そうなると知識人たるべき人に「批判を恐れずコミットメントをせよ!それが直接的に影響力を持たないとしても後世の糧となりうる!」と力を入れたところで暖簾に腕押しだ。そうなると堂々巡りじゃないが、やっぱり長期的スパンの教育が課題になりそうだ。しかしそんな教育について考えられる「知識人」すら少ない・・・言うまでもなく奸賊どもにそれができるわけはないし。

(おまけ)はっきりいって調子こいているブロガーなんて要らないから(ってこれもブログっだが 投稿が楽でログの管理ができて自分で外観をいじれるなら何ラーでもいいし)、知識人がいる国になった方がベターだ。知識人がいないせいで下らんブログが流行ってブロガーと名乗り、挙句の果てには知識人気取りになれちゃうと。

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2005年 9月 16日

バイトと税金で食う商売

投稿者 by tak@taknews.net at 09:14 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 ここのところグッドウィルのやつがメディアにでていて「安い給料でこき使ってマージンはちゃんととったり、税金で食ったりしてるんだろ」と思っていたら少し出てこなくなった。そう思ったら今度はワタミのやつが良く出ている。やれやれ元気がいいのう。
 彼らに「オタクの会社の社員(アルバイト含む)平均賃金は?あと正社員以外の人の比率は?最後にあなたの給与は?」と3つの質問をメディアがふっかければ誰もが気づくだろうに。まあメディアもばかほど給料貰っている局のやつも似た立場だもんね。

 仕事の第一の目的は「健康的な生活をするため」だと考えている。その中にはもちろん自己実現も入るだろうが、現状の社会システムでは当然に賃金も入ってくる。どれだけやりがいのある仕事でも賃金が低ければ仕事の目的は達成されえない。

 一方で若者の就労問題で必ずでてくる話が自己実現だ。金銭には触れずに自己実現のみを処方箋としようとしている。残念ながら、それは安い給料でこき使う方便以外に聞こえない。社員に対価を十分に払っている企業なら「自己実現」と言っていいが、メディアを使い仕事力みたいなことを説く企業の奴らの多くは、安い給料のバイトや契約社員などで支えられている企業が多い。間違いなく。
 グッドウィルの例で出すとモバイトのCMでレジうちのバイトしていて客の反応が良かったから明日からもがんばろうってのがある。ちょっとまてと。あのレジうちの子は一生モバイトで暮らしていけるのかと。給与はいくらだと。さらにグッドウィルが天引きしている金額はいくらだと(これがべらぼうに高い!)。保険料も全額自己負担だ。だから国民保険に入っていない人も少なくないだろう。また近い将来に切っても切れないしがらみにより、大きな負担が両の肩にかかることも想像に難くない。客の反応でうれしくなっても現実は厳しい。このような状態で企業の社会的責任を果たしているといえるだろうか。社会からゲインを得ている以上、社会に還元し自分がゲインを得ている土俵=社会の安定に寄与することはひいては自分たちのためになる事を日本の成金どもはわかっていない。


 なお上の文中にある「健康的」は人それぞれのもの(先天的、後天的影響により人それぞれ)であり、ある種の固定された「かくあるべし」というものではないので。「身体的」という意味ではない。

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2005年 9月 15日

苗字(名字)ランキング

投稿者 by tak@taknews.net at 08:31 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 昨日TBSのゴールデンに苗字のランキングみたいなものをしていた。私の苗字は変わっているということはないかもしれないが、親族以外で同じ苗字の人に対面した事がない(ただ出生地周辺にはいるようだが 2歳までしか住んでいないのと、屋号で呼ぶ地方なのでさらによくわからん)。まあまあ珍しいだろうと今までも思ってきていたが、実はそうでもなかった・・・番組中に必死になってテロップを見る気は起きなかったので、ウェブで検索できるものをみつけてやってみると↓
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
ttp://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/kensaku.html
どちらで調べてもほとんど誤差程度の違いしかない。そして順位だが500位強じゃん!世帯数なので一概に人数とはいえないにしても多い・・・けっこう「浮く」苗字だと思っていただけにびっくりした。「変わった苗字だ」と言われた事が数度はあるが、調べたみると数人は「変わった苗字」と言ったやつのほうが変わった苗字であった。
面白くなって親戚などを入れていたら、世帯数一桁の親戚がいた!それもしかして一族だけやないかと。

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2005年 9月 09日

見沢知廉自殺 「ごっこ」と賢さ・強さ

投稿者 by tak@taknews.net at 11:47 / カテゴリ: 02日本社会 / 2 コメント / 0 トラックバック

天皇ごっこ
天皇ごっこ

 見沢知廉が自殺した。体調があまりよくないと知ってはいたので、何となく(一切根拠はないのだが直感的に)こういうことになりそうな気はしていた。最近は70年安保後(康夫ちゃんがでてきたあたりから)ある種タブー視されてきたと考えられる「右翼」「左翼」という言葉が異常に安易に使われている。はっきり言えば都市型の新保守主義(ま、日本の新保守主義予備軍は本当に新保守主義政治が訪れたらえらい大損をこいて転向するだろうが)は「右翼」と呼べるものではない。要はドラえもんでいうところのスネ夫である。一方で安易な仲良し主義的なものに終始する者たちも決して「左翼」ではない。

 極左から新右翼へと転向した見沢知廉は何故にそのような転向をしたのか、それが陰ながら示されているのが彼のデビュー作「天皇ごっこ」であるように思う。新「右翼」が天皇「ごっこ」である。何故に「ごっこ」であるのかというと天皇というリソースを「わかってはいるが」利用している選択であるからだろう。
 一方で天皇陛下を元とするリソースを何とか使うことは国民に「賢さ」を要求する。また「リソース」という下を支えるものがあるとはいえ、「強さ」を必要になろう。それらに今の日本国民が耐えられるとは、私は到底思えない。都の教育委員会委員である米長のあほみたいな陛下の権威を安易に自分の都合のために流用するだけの奴が増えるだけに思えてならない。尻切れトンボですが「賢さ」と「強さ」についてはまたいずれ書くことに・・・

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2005年 6月 16日

無意識にはしごを外す

投稿者 by tak@taknews.net at 21:33 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

 本当はそうは言いたくないが最近どうしても文化的背景のためか日本の(大なり小なりの広義の)コミュニティに帰属する者の多くはそのコミュニティの価値観を享受し、かつその価値観に「絶対的価値」を無意識のうちに付加しているように思えてならない。また各々が所属しているコミュニティの少なさゆえに「絶対的価値観」から排除されてしまうと居場所なくなる。

 この辺の議論は直接間接にある程度は起こっている。ここ数ヶ月ほどの経験でこれらの違いにはやはり文化的背景が否めないのではないかと強く感じた。

 詳しくその状況を書くことはしないが、端的に言えば日本のコミュニティであってもその母体が西欧である方が他者を尊重する人間が多いことが如実に体感してしまった。別にそれら以外のコミュニティの人々が他者をバカにしているわけではないし、軽蔑しているわけでもない。表立っては何の違いもない。しかしよく言葉尻に注意したり、その人のスタンスまで垣間見る努力をすると見えてきたのだ。

 単純な二項対立にはめて考え(ま、論理的に考える素養があるだけましかも・・・)二項対立の片側に重要性を置き、もう片方は付随する下位のものだと位置づける。もちろんその重要な方に自分がコミットしているわけだ。概してこのように考えてしまっている傾向が日本で育ったコミュニティにはある可能性を強く感じてしまった。

 これでは「構造と力」の時代以前で止まっている。東浩紀の「存在論的、郵便的」知っている者たちの前で「構造と力」の脱構築を語るだけでも時代遅れと言われてしまうだろう。日本の現実は浅田彰以前というより前近代的と言ったほうがいいか。「前近代的」といえばこれから憲法問題やDue Processのいい加減さなど突っ込みを入れる書き込みに繋がる(笑

 「絶対的権威の前で人間の違いは些細である→平等思想」「自己が他者によって定義付けられている→他者の尊重の必要」と求めると矢鱈胡散臭くなるが、やはりこの考え方は宗教的なバックグラウンドも働いているように思えてならない。

 ただこうかくとハンチントンの「文明の衝突」の方にとられかねないのが問題なのだ。

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2005年 4月 28日

世界に行くやつ、帰ってきたやつ

投稿者 by tak@taknews.net at 11:23 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 同じ市内に住む我が盟友(といっても2歳くらい上)が帰国した。彼の送別会を兼ねて昨年の6月に航空公園で真昼間から酒を飲みつつ話した時を想いだす(傍から見たらダメ人間の集いだった・・・)。ほぼ丸一年ニュージーランドで過ごした彼が、どれだけ変わった姿を見せてもらえるか楽しみだ。自転車で日本中を回っていたワイルドな男がさらにワイルドになっているのではないかと期待している。また近いうち航空公園であうだろう(笑

 そしてもう一人の盟友(5歳くらい上 先輩という柄ではない人なんで)が初夏に世界一周の旅へと出かける。彼はバックパッカー暦長いが、今回の旅が集大成となるのだろう。一年後ぐらいに帰国するだろうか。そのときは写真をわんさか持ってきていろいろな話を聞かせてくれるはずだ。今からそれが楽しみでならない。

 彼らが私にもたらせてくれる話はただの旅行の話ではない。彼らの感じた「世界」を示してもらえるのだ。「地球の歩き方」程度のものはさほど興味はない。それらは大概において自分が所属している「社会」の焼きなおしに過ぎない事が多い。「世界」を知りたい、故に旅をするのだ。昨年シンガポールに行ってきたときも国民の「体温の高さ」が一番忘れられない。ちょうど大統領選(但しシンガポールの大統領は事実上お飾り)が近かったのだが、それに対する国民の関心の高さには本当に驚いた。今回のマル激でも憲法意志などの考察があったが、他国の「体温の高さ」を肌で感じてしまうとある種の絶望を禁じえないのだ。それは本などを通して理解していた虚しい状況を自分の体で体感し絶望したからだ。しかし、そのように理解することがすでに「社会」に回収されているのだろうか。私もまだまだ考察が足りないようだ。

 私もそろそろ現在所属している「社会」からちょっと抜け出してみるころかな。社会と世界が肉薄しているとはいえ国内でもまだまだそのような地は存在する。国内では釧路・知床にでも行こうかと考えている。一方で香港ーシンガポール列車の旅もやっておかなければ。

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2005年 3月 09日

フェラーリーの新車だめだこりゃ

投稿者 by tak@taknews.net at 21:30 / カテゴリ: 02日本社会 / 740 コメント / 0 トラックバック

参考 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050309-02343924-jijp-bus_all.view-001
 フェラーリーが新型車を発表した。マリオ・ボーバ駐日イタリア大使は「フェラーリが誇るイタリア屈指のデザインと最先端技術が盛り込まれた車」と言っているらしいが失望のデザイン。なんだこの日本車みたいな丸っこいデザインは。どこの工房だ?まさかピニンファリーナじゃなかろうな・・・もし全面的に(日本車みたいにダッシュボードだけ担当というのは論外)ピニンファリーナでこのデザインならちょっと失望。もともとベルトーネのほうが趣味が合う(但しフェラーリー328は素晴らしい)とはいえ、この丸くごまかしたデザインはだめだ。直線の中で揺らぎを感じさせるものが美しい。ベンツの丸いライトも車体が丸いから最悪。あれに乗っている連中は金があるが文化がないと勝手に思っいる(毒 ミスター風に言うならば「どーんと来てすーっと」なるものが理想。また空間の中で臨界線を示しながら揺らいでいる世界も見せて欲しい。
 ま、偉そうに言っても到底金銭的にのれませんが(笑 そもそも中学のときに美術2だった者ですが・・・

 あと余談だがついに花粉症がきた。しかも結構ひどく。今年はひどいらしいしな・・・今年に入ってよくわからん高熱がでる変な風邪にかかるは、昨日くらいまで微熱のわりにやたらけだるいは(多分インフルエンザだったのかも 周りを見ていると今年のやつは抵抗力が強い人は熱が上がらないような気がする)、さらに(血縁者ではない)かなり近しい方の姉が駆け落ちするは(近いうちに私に甚大な影響があるかもしれんのだ)で本当に厄年であることが関係しているのではないかと疑ってしまう(汗 佐野厄除け大師にいかないとダメだわw

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2005年 2月 24日

質量

投稿者 by tak@taknews.net at 23:25 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

 本日とある場で初対面の同年代の方4人とディスカッションをする場面に出くわした。私は雑学とかがある程度豊富なのでどの分野になっても確実に具体例を提示できた。
 しかし、そのような「強さ」は量の強さでしかない。それに「形容詞的限定法」と同じで常に相対でしかなく、絶対に上には上がいる。いってみるならば平均より頭一つ抜けているだけの状態を延々と自問するしかないのだ。その「強さ」を質的なものに変えることは可能だろうか。仮に可能なら、そこには永遠性が見え隠れしてくる。契機なき己と世界との関係の中で、初めて質に言及できうるのではないかと。
 自分が知識を人より吐き出した時に毎回このように自問する。
 もちろん量的勝負の状況でいともたやすく白旗を揚げるのはだめだ。外部記憶装置を隔離する態度は、量的なものを超越している場面で見たことは一回もない。

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2005年 2月 04日

子供を殺すのは変態より親や学校

投稿者 by tak@taknews.net at 23:08 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 奈良少女殺人事件でにわかにミーガン法(メーガン法 Megan's law)の制定が現実味を帯びてきた。しかし少し待って欲しい。はっきり言えばこの法律が制定されたところで救われる命はいくら多くても現状では年間片手で数えられるくらいだ。片手でも多いくらいかもしれない。一方で昨年一年間のうちに児童虐待で51人が犠牲になっている。こちらの対策のほうが明らかに急を要していて、救われるべき命も多い。ネオリベ政権だからこういう方策をとるのは当たり前といったらそれまでだが、マスメディアもちゃんとそれを報じるべきだ。もちろん国民も「こっちの方がやばいじゃん」と早く気づかなければならないのだが。
 今回の統計での死亡者は51人であった。何度もしつこいが児童性愛者によって殺される子供たちの数よりよっぽど多い。他にも学校化された社会から逃れるために自殺した人も少なからずいる。そのような現状で本当に子供のことを考えているのなら周りのものが子供をいじめたり死に至らしめたりする問題から解決策を考えていくべきだ。

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2005年 1月 28日

フェスティバルゲート

投稿者 by tak@taknews.net at 19:34 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

書きかけですけど書きかけのうちに潰れちゃうかもしれないから(笑)とりあえず投稿 

 フェスティバルゲートの写真→http://moonflyer.lala.cc/japan/osaka/festival/index.shtml?1 泣きそうなくらい虚しいな。。。スペル・デルフィンの結婚のときにメディア露出もあって、大阪プロレスで結構もっていると思っていたのだが、全然そんなことなかった。こりゃやばいわ。潰れる可能性大だ。本家サイトhttp://www.festivalgate.co.jp/も死んでるし。
 実は私二度行ってます、ここ。一回目は(一応は)栄えているとき、二度目は下降していた。一回目は修学旅行。転校を何度かしていた私は小中高すべての修学旅行が過去住んだ所、ないしその近辺であった。けど京都の寺院は住んでるときは逆に行かなかったが。二回目は三年ほど前に高速バスで行った。理由は特になく。そのとき感じたことが「ここにテーマパーク作るか〜」という感慨であった。いくつかの「感慨」を書いていこう。

 まずは立地についてだ。通天閣近辺は少し前まで怖くて近づけないようなところだったのだ。鈴木沙理奈がどっかで「昔は怖くていけへんかったのに、すごい変わっててびっくりした」みたいなことを書いていた記憶もある。ホームレスの年期の入り方が違う。もう関東のそれとは桁が違う。そのような状況であったから大阪市は再開発をして一気に「きれいに」しようとしたのであろう。その方策が甘かったと言わざる終えないだろう。ただテーマパークのディズニーランドへの一極化は少々面白くないのだが。

 この失敗の方法はいくつか問題があろう。まずはハコモノ作ればそれでOKという考え方はもはや成り立たないということ。金をぶち込んで新しいものを造ればハイ!栄えます、とはならない。繁華街からさほど離れていないところに都市的レジャーランドを造るという方針は一瞬悪くないように思えるが、最近の人の嗜好を考えれば表層で魅せてくれるテーマパークがよさそうである。まあ、そこまで考えて金をぶち込むことはないか。

 また街の荒廃や浮浪者などの問題を一つの施設で解決しようとした甘さだろう。浮浪者と共生と言うだけで解決する問題でないのは間違いない。だからこそもっとちゃんと対策したほうが良かったのではないかと思わされる。

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2005年 1月 22日

タッキーおまえもか!?

投稿者 by tak@taknews.net at 00:17 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 ここ数年、公明党の神崎がテレビでるとき(選挙とかテレビにでるとき)は赤いネクタイばかりだ。赤は勝利だっけ?信号かルーマニアか知らんけど、あの旗。もとい、あのネクタイを見るたびに「ここまでどうどうとしてるのか」という放心状態を感じる。曲がりなりにも大作党公明党と大作会創価学会を表立たすことを控えてきたように思う。それがあれだけどうどうと自ら大作党(もう線引くのめんどい)の一員であることを晒している。これはこの現状が既成事実になっていることを示している。政教分離なんてお構いなしだ。

 では何故このような状態が「既成事実」となったのであろうか。これにはいくつも理由があろう。聖教紙(第三種郵便ではないのでこう呼びます)の輪転機問題などに始まるメディアへの力での圧力、与党に組み込まれて自民党が文句をいえなくなった、郊外に本当に信者が多いなどあろう。

 輪転機問題は早い話、聖教紙を他の新聞社に刷らせること。一見どうでもいいように思えるが、創価批判書くと手を引かれる。メディアがメディアを抑えているわけですな。

 自民党もへぼすぎる。連立組んだらもっとうまくやれよ。金だけ大作から吸い尽くせ、お前が吸われてどうする。大作重病説で官邸に一報が走る日本はいたくないのう。亀井も昔みたいに騒げよ。お前の存在価値はそれだけ。あ〜しかしそう考えると小沢が新進党壊したから大作党が復活したんだ。う〜ん・・・

 郊外の増やし方はあれはねずみ講みたいなものではないだろうか。アムウェイ式とでもいうか。実際私の家の近くでもそんな感じだ。何かの集まりに招待されて、友達のおばちゃん連中がいってみたらルーマニアの旗が(嘲 いまさら帰るとも言えない。他の参加者を見ると知っている人が。「あいつも創価か」と思ったら「来てくれたの?」と。「いや、来てないのですけど!」ともいえず、食い物も怖くて手がつけられず終わるを今か今かと待ち続ける。やっと終わると、帰りにいただくのはもちろん「パンプキン」。そう、あの「オレンジページ」風の作りなのになぜか週刊新潮断罪記事があるやつ。その組み合わせはありえんよ。そして人によっては家まで持っていって読む。一部は駅のゴミ箱に速攻捨てる(笑 お土産はそれだけ?いやいや忘れていませんか?そう大作先生のビデオ!世界の偉い方とあったビデオ!あれね、日本では「虎の威を借る狐」っていうんだよ。あれですごいのは池田じゃなくて要人のほう。それすら気づかない感覚は何なのだろう。

 このような積み重ねが残念ながら先述の既成事実を作ってしまった。

 変なところ書き連ねようと思ったがやっぱやめた。

 そんなことも週刊新潮の中吊りみて思った。タッキーどうなんでしょうか?石原さとみは創価高校ですしね。義経は日蓮より少し昔の人だけどそれは問題にならないのか(嘲 まあ芸能人には久本みたいなやつもいれば入信すれば売れるので戦略として入っているやつもいるでしょうね。最近多すぎです、学会員芸能人。次は韓流スターが入りますよ。「間違いない!」もしかしたらもう入ってるかな。

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2005年 1月 20日

黎明期

投稿者 by tak@taknews.net at 11:39 / カテゴリ: 02日本社会 / 7 コメント / 0 トラックバック

 何事も黎明期が面白い。そういう風に、ここ半年ぐらい感じている。黎明期は一気に成長していきつつ、人員は広がりすぎていない。

 実は工房(高校生ね)のときにニュース系のメールマガジンを発行していたことがある。その時分はまさに携帯電話によるメールマガジンの黎明期であった。またインターネットの爆発的普及が始まる少し前の段階であった。ぎりぎり、最後の黎明期終盤に滑り込めたのだ。ちなみに、もう廃刊になのだが、merumoの通し番号は結構若かった。
 そのメルマガのスタイルは大きなトピックスについて個人なりに考えてことを投稿するスタイルであった。私が工房であることを晒していなかったこともあり、中年の人から(今考えたら)とんでもない数のレスが来ていた。それを逐一返信していた、携帯で(笑 その中で生まれていく「もの」があった。いや、別に生む生まないではないかもしれない。あのときの「爆発力」こそが、今になって考えれば懐かしいのだ。

 ネットについては10年ほど前から繋がっていたが、本格的にやりだしたのはブロードバンド黎明期。よって後発組の初期。しかしたまにであっても繋げていた事実が蓄積してたのだろう。CATV入ってから「黎明期」を感じることはなかった。

 そんな「黎明期」感が見えないネット上で何か一山作ろうと思ったらどうすればいいのだろうか?いや、黎明期という表現は「ある意味」で間違いだ。「黎明期」は過ぎたのに、参加する側は後発組みが圧倒的に多いせいで彼らは自分の「黎明期」を楽しんでいるのだ。いや、楽しむのは当然いいのだが。
 問題は「自己黎明期」でいる人は成功例からパラレルで結んでしまってはいけないものを結んでいる。そのパラレルも二つ軸がある。時代と性質だ。どちらも具体例を出すのがわかりやすいだろう。
 例えば、私のニュース系メルマガが昔ヒットした→同じ質なら今もヒットする、と考えるのが時代の錯誤。
 一端の普通の女の子がネットアイドルとなった→俺も無名から有名になるチャンスがネット上にはある、と考える性質の錯誤。

 時代の錯誤は冷静に考えればすぐ気づくことだ。たまごっちを流行らせようと今になっていうみたいなものだ。それでも「黎明期」にいると思っちゃっているとそう考える人も少なからずいる。
 性質の錯誤は「自己黎明期」の人もわかっている人が多いだろう。しかしそれに対するある種の「絶望」が足りないのではなかろうか。「いや、俺もまだいけるかもしれない!あんな無名のやつが人気になったのだから」という「少ない可能性(少ない可能性という認識はある)」にかける。しかし実は種を植えた土壌がもう「黎明期」ではないのだ。もう決まりきった土壌なのだ。と感じえてならない。
 結論は「少ない可能性にかける」になるのは目に見えているし、落としどころとして間違いない。しかしこの「少ない可能性」のレイヤーを「自己黎明期」の人は自分が植える種の質に「絶望」を感じる。私は種どころか土壌がすでに芽をだすことができないものだという「絶望」を感じている。

 大きなお世話かもしれないが、その「絶望」から始めなければならないのだと思う。結局の落としどころは全く一緒で結果も一緒である可能性が高いのだが、そういう認識がなければならない。

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2005年 1月 17日

人間とは?

投稿者 by tak@taknews.net at 23:38 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 本日、興味深いことを聞いた。自閉症やアスペルがー症候群のコミュニケーションの「治療」は一対一で「このような時はこのような対応をする」ということを一つずつ「覚えていく」作業だそうだ。なぜなら彼らには言外の意味を理解したり、話し手が伝達しようとする意思を受け取る能力がなかったり、違っていたりするためだ。(本当はもっと医学的ないし言語学的にちゃんと説明しなければいけないけど割愛)彼らは逐一人の動作と感情を覚える「しか」ないのだ。例えば「はい」と言いながら睨んでいても単純に「はい」だけを字面どおりにとってしまうとか。
 この問題は実は人間を人間たらしめているものに関わってくる。ずばり言うとチンパンジーなどはある程度言語を理解するというのは、一対一で言語と意味を記憶しているからだ。もちろんキャパシティーの違いは現状ではあるのだが、どちらもメタレベルの発達がないという共通点がある。仮にチンパンジーの「言語」と人間の言語に区分を入れるとするならば、それはメタレベルでの言語能力(それは心の理論とも繋がる)があるかどうかで区分するしかない。そうなると・・・
 ここで終われば「お前は彼らを人間と呼ばないのか!」とお叱りを受けてしまうだろう。まあそこら辺はのちのち。最近の日本社会の普遍的テーマに繋がりうる問題だとは言っておこうかな。

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2004年 12月 21日

流し

投稿者 by tak@taknews.net at 08:52 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

 最近のニュースを見ていて痛感するのはニュース自体がアイコン化しているのではないかという気分だ。もしかしたら私だけが感じているのかもしれないが。だから思うことはあってもアイコンとしての効果以上のものを感じれないでいる。オウム真理教の松本被告の公判手続き停止や鑑定実施はやらないと東京高裁が決めたことなども、かなり大きな出来事であろう。しかし他のニュースなどに押されて何も報道されない。これはそう考えるとアイコンにもなっていないか。
 センセーショナルなニュースはアイコン化が激しい。もはや盛り上がるためのアイコンなのではないだろうか。特定のワードが出るとそれに強く反応する。飽きたら終わり。膨大なデータがあふれるからこそ目にとまるもの(それは意識的なものも含めて)のみ二反応する。その反応する基準?それは心地いいか、噴きあがれるか。それ以外は軽く流せる。まあ、そんなものかもしれない。

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2004年 12月 16日

¬学校∧社会な地点はなく

投稿者 by tak@taknews.net at 11:30 / カテゴリ: 02日本社会 / 141 コメント / 0 トラックバック

 家の近くに週二回ほど利用する踏切がある。車は通れない小さなものだ。この踏切で去年自殺があった。その直後に若い女性だと聞いていた。「おっさんやなくて若い人か」と軽く思っていた。
 その安易さは完全にぶっ飛ばされた。母の「おばはんネットワーク」で仕入れてきた情報が耳に入ったのだ。それによると自殺した女性は、私と中学校の同級生だったそうだ。(親が失念し)名前は分からないのだが、登校拒否の子だったとのことだ。何人か頭の中に可能性が浮かぶのだが、中学校二年の時に転校してきたこともあり、登校拒否の子を全員把握できていない。話を聞く限り、小学校のころから「学校化した社会」から逃れられない現実に悩んでいたようだ。どうやら卒業アルバムの写真を見ていき、一度も会っていない子を見つければ、わかってしまうのかもしれない。
 自殺した子は自殺の前日に「お世話になった」と幾人かの人に挨拶して回ったそうだ。その挨拶された人たちは、私の友人の名も多くあった。それが私の「知らないでいたい」というマインドを強く、強く後押しする。いくつか頭に浮かぶ名前が出てきそうで。
 私の記憶が確かならば、一回忌を過ぎた。先日その踏切を通ったときに真新しい花が供えてあった。普段は路傍の花束には気味の悪さを感じずにいられないでいるが、今回ばかりは「忘れられてないな」と安心した。学校化した社会の犠牲者を「負け組」なる言葉で綴ってはならない。

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2004年 12月 10日

言葉狩り

投稿者 by tak@taknews.net at 18:40 / カテゴリ: 02日本社会 / 1 コメント / 0 トラックバック

 最近「痴呆症」の呼称を「認知症」に変えるということがあった。痴呆の言葉にマイナスのイメージがある(というか「ありうる」)ことは間違いがない。しかしだからといってそういう類の言葉をすべてなくせばいいのだろうか?私はそうは思わない。むしろ言葉を狩ることにより余計に差別的な待遇になりかねないのではなかろうか。
 一般的に使われる狩られそうな言葉「ぼけ」「はげ」「たねなし」などの言葉には「愛」があるのではなかろうか。「じいさんぼけたな〜」と言う言葉には大概「はっはっは〜」と笑える「愛」があった。しかしこれを「じいさん物事が認知できなくなった」では客観的には正しくとも「愛」がない。よっぽどじいさんに対して冷たい。「はげ」も「単位面積あたりの毛髪の本数が少ない」と言われたら余計へこむ。「はげ」にも「愛」があるじゃないか。半笑いの「愛」があるではないか。

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2004年 11月 08日

ソーシャルネットワーキングやメッセンジャーにのれないわけ

投稿者 by tak@taknews.net at 00:27 / カテゴリ: 02日本社会 , 13電化製品 / 1 コメント / 0 トラックバック

 私はパソコン関連はずば抜けて知識があるわけではないが、(このサイトがあることから当たり前だが)MTを構築したりするくらいの中級レベルの知識はある。他にも自宅鯖運営も機材さえあれば可能。(プログラミングは身を滅ぼしそうだからノータッチw)家にいる間もパソコンに向かっている比率は結構高く、先日も両手が腱鞘炎になった。その後キーボード入力の負担はダイソーの100円アームレストでだいぶ改善されたが。そんなにパソコンに張り付いているやつは相当2chやりまくってメッセンジャーやチャットをばりばりやってるかと思われがちだが 実はほとんどしていない。特にチャット、メッセンジャーは全くやっていない。つまり2chをロムる(しかも特定のスレのみ)だけ。最近K師よりGREEとmixiに誘って頂き入ったが結局一回も更新していない。。。申し訳ない。本当は興味がなくてもどういう場なのかチェックするべきであるので、ちゃんと見なきゃいけないのだがログインさえしていない・・・

 では傍から見れば「パソコンはりつき気味」と言われかねない私が何故大学生あたりがよく使うものは使っていないのかと言うといくつか理由がある。一つ目の理由は、パソコンとは所詮いくら働かせても文句を言わない利得を生む手段としか見ていないからだろう。パソコンはエディタ、ネット、音楽、DVD、あとは回りがそれしかもってないから仕方なくワード、エクセル、パワポをちょくちょく使うくらい。このように普段の生活や文を書くときに必要なので使っているにすぎない。要は単純に自分が得するからだ。文をどんどん打てる、DVD見れる、音楽ロスレス圧縮でバックアップできる、パソコン自作で安く好みのマシンが作れる(最近は激安パソコンが多いので一概に言えないが)などの時間かお金の利得を得るために使っているに過ぎない。それ以外の用途となるものは あまり必要性を感じていない。
 
 次の理由としては―これが大きな理由であるが―ネットコミュニケーションの可能性は大いにあるのだが、他愛のない記号の戯れ、記号の交換によるソーシャルネットワーキングとやらがそこまで大きな力となりうるのか、という疑問に懐疑的であるからだ。はっきり言えば「性が結びつきにくい」出会い系としか見ていない。
 偉そうに言わせてもらうと、自分としては記号と戯れる先を考えているつもりなのでわざわざ後戻りする気はないというのも一つだ。記号の戯れの中で生まれ出づる可能性は非常に大きいことは認める。しかし過去のトライアル&エラーによりある程度、その限界もはっきり見えてきたように感じる。年齢や現実は超えられなさそうなのだ。それを超えうる「戯れ」でありうるかという問いには現状では"ABSOLUTELY, NO"だと、私は考えている。
 乱暴ついでに言わせてもらうと一般的な会社員とかはそんなことやる暇あったら寝たいでしょ、みたいなw 「ぼたばら」見ていた人は職についていないみたいな暇人選別(選民)性みたいな面をソーシャルなんちゃらにも感じる。<個人的には東海テレビ枠の昼ドラは「はるちゃん」がよかった、って同じ暇人かよ!←一人乗り突っ込み>

 メッセンジャーについてはダントツで時間を浪費する。短文主体で話が深くなりづらい=自分として得るものがない場合が多い。ずっと起動しているのがうざいし気分的にも良くない。今みたいに文を打っているときに邪魔がきうる。そもそも仕事で使うわけでないなら電話やメールで十分。というところだろうか。もちろん出会い系として使っている人にとっては以上の理由は当てはまらないことであろうが。私には関係ないし。

 ここまで書いたら考えが甘かったことが将来確証された暁には土下座して回らないとw

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2004年 9月 12日

個人情報〜頭隠して尻隠さず〜

投稿者 by tak@taknews.net at 12:02 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

 最近諸所の場で自分の名前などをその場にいる人々にもシェアしたがらない人が結構多いように思う。その気持ちは大いにわかる。なんとなく怖いストーカー事件とかがよくある。(この恐怖の構造も考察するに値するが多くの人がそのような不安を感じうる状況であるということは事実として受け入れよう。)そうなればあまりさらしたくない気持ちもわかる。
 もう一つの可能性として近代社会は「名前」という記号をその人そのものとして扱ってきた。私についても同様で「私」が人から人へと伝えられるときは必ず私の名前にその情報を「載せて」伝えられてきている。人を名前でなくて映像などでアイデンティファイしているのは犯人を日夜追っている現場の警察官くらいなものだ。そのような社会への反発かもしれない。まあ間違いなく深読みだろから今回はこっちは前提にしない。

 ここで考えて欲しい。本当にそんな小さなことで守れているのだろうか。一時は数万円した携帯の電話番号から契約者の情報を引き出す技も相当値崩れ(P2Pで流れれば無料だし)を起こしている(もちろん内部犯罪)。連休でちょっと車で遠出すれば幹線道路ではNシステムで通過したことを把握される。高速道路に乗れば券にナンバー打ち込まれしょっぱなから把握される。そしてNシステムもばんばんあり。もしあなたが配偶者ないし付き合っている人と同伴(ってそれ以外もありうるのだが・・・)夜になってインター沿いのブティックホテル(ちょっと俗さがない言い方)にいけば警察から言われているのでナンバーは控えられている。これなんてもうどう処理されているかは全くわからない。それこそ裏に流されているかもしれない。もちろんナンバーからその所有者を割り出すことは手間はかかるが合法的に誰でも可能だ。街を歩けばどう管理されているかわからない監視カメラがあちこちに・・・
 いま上であげたことは基本的に個人情報を取得している側がちゃんとしていれば問題がないものだ。ただそれが疑わしい現状で全面的に受け入れる気には到底なれないが。最終的には無理なのは自明であるがなるべく内部犯罪が起きないアーキテクチャーを構築する義務が情報を得る側にはあるのは間違いない。

 まだまだ漏れる場面はある。中には内部犯罪(多数の善人に紛れ込んだ悪人)ではなく意図的に犯罪ないし好ましくない方法で個人情報を取得する者もいる。盗聴、盗撮といったある程度ハードが必要なものからスパイウエアといったハードが全く必要がない(パソコンを拝借)ものまで多岐にわたる。私はパソコンの能力がネット、メール程度で詳しくない(=私の友人知人のほとんど全員)人の家に行ったら許可を取って必ずスパイウエアをチェックするのだが絶対に一つは出てくる。そのスパイウエアの名称で見ているサイトも大体わかったりするが(「やたらxが多いな」)w。平均すれば10個は出てくる。どういうスパイウエアかまで調べていないが一般的に考えればトレースはしているのだろう。それを日夜自分のパソコンから流しているわけで。某日本国が米国に提供している土地からエシュロンの(ry

 私に言わせれば普段の生活で住所・氏名程度を相手がさらすないし皆がさらすのが前提の場面で自分は出し渋りつつパソコンのウイルスやスパイウエア対策はしていない人が多いことは馬鹿げていてならない。さすがにウイルスは知っている人が多いが「スパイウエア?何それ?」「ActiveX?お前オタク?」みたいに思う多くの人が多くいるのはまあ滑稽だ。いや、別にわかっていてほっとくならいい。大概逆にそんな人に限って「私生活」で個人情報にうるさかったりするものだ。見えないところで個人情報を抜かれているこれらの方がよっぽど危ないと思うのだが。

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2004年 9月 09日

花博にみた地方都市の運命

投稿者 by tak@taknews.net at 11:11 / カテゴリ: 02日本社会 , 11旅 / 0 コメント / 0 トラックバック

 この土日浜松の花博に行ってきた。浜松に行ったのは9年強ぶり。前回は訪問ではなく居住地だったのだが。行って感じたことは変わらないものは変わらずあり、変わっものはなくなったという感じだ。
 まず変わったことは街がだいぶすたれてきたことだ。松菱百貨店はなくなった上に空いたまんま。百貨店一つがまるまる空いた状態はさびしいものだ。他にもかなり大き目の商店街(道に沿って縦横に店が広がる)があるのだが、空いてしまったところが多い。空きが多いせいで家賃が下がったのだろう、若い店主の服屋がやたら増えていた。しかし若い人たちの服屋だけで商店街をキープしていくことは、長期的に見ればかなり厳しい。また服屋自体、初期投資後も生鮮食料品ほどではないにしても回転資金がそれ相応に必要な業種なので今後どうなるかはわからない。ただ工場が多い土地柄、若い人はいるのでまだ可能性はあるかもしれない。(西武の跡地は意外にきれいなまま違う店として残っていて、かつそれなりに人がいたのは街がまだ死んでいない証拠だろう。)
 そして最も驚いたのがイオン浜松志都呂ショッピングセンターhttp://www.aeon-hamamatsu-shitoro.com/index.htmlだ。花博の雄踏駐車場近くにどか〜ん!と現れた巨大な建物。駐車場の一番上へと伸びるスロープはまるでジャンプ台だ。本当に度肝を抜かれた。あとで知ったのだが面積は18万平米。400メートルの正方形で16万であるからそのでかさは半端ではない。こんなものができてしまったら浜松、浜北周辺の店は皆ぶっつぶれるだろう。平日は遠鉄ストア、休日は半分レジャーみたいな感覚でイオンまで、という生活が容易に想像できてならない。土地柄、軽の車が多く主婦も車に乗っている割合が高い。郊外、といっても中心地からわずか8キロの地点にあんなものが作られたらもう小売店は終わりだ。そして商店街はどんどんさびれそのうち百貨店もなくなり街が荒廃していく。そしたら破れ窓理論の通り犯罪が増える。そして浜松はブラジル人などの海外からの労働者が非常に多いため、犯罪と絡み非常に微妙な問題が発生することも十分に考えられる。そのコストを考えればイオンで清潔感ある建物で安いものが買えるコストは決して安くはない。またイオン自身は地元に落とす金が大きいわけではない。雇用もアルバイト中心でなんといっても、もうけた金で何かを買うわけではない。地元で消費者とならない一方的な販売者であることを忘れてはならない。以上を考えると私にしてみれば、イオン出店はむしろ高いコストに思える。そちらがいいかは人それぞれであろうが、それらコストを勘案してから物事を決める必要があるのは間違いない。なお最新号の雑誌「選択」でこのショッピングセンターの記事がある。そこで書かれていたのだがアメリカでは条例でウォルマート出店を制限しているところがあるそうだ。これは考慮するに値する。
(岡田も押せないんだよな・・・ぼそ)

 変わらないもの、まずは天錦はてんぷらの具をあげるときに手も油に入れること。あ、けど揚げるのが息子さんになっていた。先代は奥にいたので仕込みをしているのだろう。ちなみにパフォーマンスの派手さはまだまだ先代が上。味は相変わらずおいしい。特にエビがまさにエビの味がして最高。
 八百徳のうな茶も相変わらずうまい。お茶といっても昆布茶なのであっさりしていて意外に鰻とあう。これを食べれば一週間くらいは元気になること間違いなし。ただコストパフォーマンスを考えれば天錦に軍配か(天丼1000円、うな茶2200円)
 あとは街の風景は店舗が寂れた中心部を除けばおおむね変わりはない。特に住宅地はほとんど私の記憶と変化はない。私が昔住んでいた家も相変わらず建っていた。プールや水着が干してあったので子供のいるファミリーが住んでいるのであろう。あれから10年弱が経ったかという思いと、今は違う方の住まいなのにまるで自宅に帰ってきたような私の感覚がぶつかる感覚が何ともいえない。「世界」の衝突。

2004.9.11追記 天錦の天丼は夜2000円だそう。1000円はお昼の値段なので注意!

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2004年 7月 04日

日本人のヘリテージはなにか

投稿者 by tak@taknews.net at 17:28 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

最近やたら日本人のヘリテージについて考える。
果たして日本に「相続財産」はあるのだろうか。

私の出生地は石川県である。(但しあくまで出生地で2歳からは「郊外」に住み数年間は「鍵っ子」だった。)
その田舎に強く愛着があるかといえばはっきり言ってない。人間のつながりのみであるがそれは時間と共に、それも近い将来、年老いた相手方の死を向かえ確実に切れる。

田舎には私が心から守りたいものはほとんどない。海も畑も田んぼもみんなどこの田舎でも見る風景だ。
コンクリぶち込みは短期的な労働などはもたらしえただろうが確実に私たちの心をその地より離した。
山は杉と林道、海はテトラと防波堤どこに行っても全く同じ。

私は田舎の老人たちが地方収奪の図式が旧経世会のやり方で救われた、わけではなく旧経世会もあるべきかの地を抹殺してしまった、ということに気づいて欲しい。
それに気づくまで私はあの地への特別な思いを持ち得ない。

もちろんヘリテージは故郷だけではない。しかし何もやはり考え付かない。
三島由紀夫の怒りにも似た苦悩を誰も考えずここまできてしまった。

最後に一つ付け加えよう。本当は上記のようなことは年配の方に考えて欲しい。
このようなことを考え示せることも「長老」の存在意義だと思うがそれを担える存在が少なすぎる。
若い者は若い者らしくリベラルにものを言いたい感情もある。(そもそも自分の立場はリベラルだと思っている)
しかし敢えてここのブログでは右よりの発言を増やしている。私がこの役をやらなければとー勝手ではあるがー思っている現状にベテラン勢はどう思うのだろうか?

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2004年 5月 19日

社会を垣間見る(よたよた考えたこと)パート1

投稿者 by tak@taknews.net at 22:21 / カテゴリ: 02日本社会 / 0 コメント / 0 トラックバック

一昨日ジャーナリスト・評論家のT氏の授業があったのですがいつにも増して興味深いお話を聞けました。
その理由は受講生のやろうとしているルポについて軽い発表がありその後先生がヒントを含めコメントされたのでいつにも増して多種多様なお話が聞けたのが良かったです。
また自分自身他の方の題材を聞いて触発を受けました。
それでは以降で受講生の題材に対して勝手に私が考えていたことを幾場面か再現することにより自らの思考を再整理しようと思います。

また一部先生や受講生の発言やその意図も入れていこうと思います。特に断りのない地の文は私の考えです。(実際には30人強の受講生がいますが一部しか取り上げません。)

・ 地元商店街のへそ踊りについて
実に興味深いですね。私も何度か写真で見たことがあるのですが基本的に子供とおっさんだけでしたので見に行っていませんが。
若いおね〜ちゃんがやっていたら逆に引くか・・・しかし何故あのような祭りができたのかは興味がありますね。祭りといえばフラッシュモブ現象も面白いかな。

・ メディア
これを題材にされた受講生は各新聞、内容面での対立がちゃんとあり、「メディア」として機能しているとお考えのようです。
う〜ん、私には日本メディアの悪いところしか見えないくらいですので思いっきり突っ込みたくなりました。おい!まて!朝日×読売も所詮お遊びみたいなものだろ!

・ 愛玩動物(ペット)
ペットの私物化問題ですね。毛むくじゃらなのに服着せられたりいつの間にやら毛を染められたり物質としての扱いをしているといわれても仕方ない面がありますね。
そう考えるとプードルが骨付きチキンみたいな足に刈られるのも実は際どいところかもしれませんね。
先生がとあるペットショップで取材したときに「あけましておめでとう」と書かれたクッキーについて店の人に問うたら「人が喜んでいるのを見て犬も喜ぶんです」と言ったそうです。
そんな独善的至福を犬は求めているか、そもそも人間はそのようなものを真に喜びと思っているでしょうか。
そんなこと言ってるやつらこそ普段の生活で「忠」の精神を持たずに生きているのではないかと思うのですが。
そもそも犬はそこまでも考えていない可能性が大ですが・・・
これらについて果たして買主に論理的説明ができるのでしょうかとても興味があるところです。
ただ突き詰めると「ペットはそもそもだめ」というところに行き着くのでそれはそれでどこかに落としどころを設定する必要があるでしょう。
そこの記述も期待したいですね。

・ ペットの殺処分
これも深刻な問題ですね。とはいえタイのように野良犬を町で飼うことは日本では無理なので行政側としては致し方ないというのが結論でしょうか・・・
あとこの問題を考えるといつも頭に浮かぶのは堀江動物園です。
ここは所謂「リストラ」されて殺処分しかない状況の動物たちを全国の動物園等から引き取っていらっしゃる移動動物園です。
テレビでよく放送されていますがその内容は行き着くところ環境の悪さもしくは動物の尊厳です。
しかしそれはまだ表層に近い部分に過ぎません。これは私たち一般市民がこうさせているのです。昔は動物園言ってきゃっきゃきゃっきゃ言ってたのに今はそれに変わる娯楽が台頭し、動物自体にも珍しさが減少したせいで多くの動物園が廃業に追い込まれました。
もちろん経営が下手だったところもあるでしょう。しかしテレビで堀江動物園のニュースを見て心が痛んでも、それはシンパシーに過ぎず自分自身が刃で切られていることに気づいていない多くの人がいる現状を考えますとやはり動物は所詮ものなのかもしれません。
私はこのことを考えるたびに心底申し訳なく思います。

続きは明日以降に・・・

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